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ストーリー3

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ボクシングヘビー級の表彰式

—– 印象に残った試合はありましたか?

ひとつは、ボクシングですね。ヘビー級のジョー・フレージャー(アメリカ)とハンス・フベル(ドイツ)との決勝は、迫力がありましたねぇ。結構体格差があって、フベルの方が大きかったんです。リーチの長さも、圧倒的にフベルの方があって、同時にパンチを出すと、フレージャーの方は相手に届いていませんでした。しかも、その時フレージャーは親指を骨折していたんです。それでも、フレージャーのパンチの威力はすごくて、彼がパンチを出すと、空気がビュンと揺れるのを感じました。

結局、フレージャーが判定でフベルを下し、金メダルを獲得しました。それから陸上競技の男子100m走決勝も目の前で見ました。当時の世界新記録10.0秒を出して金メダルを獲得したボブ・ヘイズ(アメリカ)は、独特な走りでしたね。とてもスムーズな走りではなくて、「こんな走り方で?」と思いましたが、それでも圧倒的な速さでしたよね。やはり迫力がありました。でも、やっぱり一番の思い出と言えば、女子体操のベラ・チャスラフスカ(旧チェコスロバキア)でしたね。

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選手村内に設置されたディスコで楽しむ選手たち

—– 彼女は東京オリンピックで最も日本人から愛された海外選手の一人だったのではないでしょうか。

本当にそうでしたね。実は、彼女が来日したら話をしたいと思って、「何語なら通じるんだろう?」と一生懸命考えて、「ドイツ語なら話せるかもしれない」と、開幕前のひと夏ドイツ語を勉強したんです。

—– チャスラフスカと話したいためにですか?

はい、彼女と話すためだけにです(笑)。それで、当時は会話のためのテキストなんてないですから、分厚いドイツ語の資本論を買いまして、必死になって読みました。

—– チャスラフスカにはお会いできたんですか?

選手村に行った時に探したら、トレーニングパンツ姿の彼女を見つけることができたんです。当時、選手村にはディスコのような、ちょっとしたダンススペースが設けられていましたので、チャスラフスカに思い切って勉強したドイツ語で必死になって話しかけました。「一緒に踊ってくれませんか」と。そしたら「いいわよ」と言ってくれて、少しだけ一緒に踊ってもらいました。それで最後に握手してくれたのですが、体操選手なのでゴツゴツしていると思ったら、以外に柔らかくて驚きました。

—– その時の感触は未だに残っているんでしょうか(笑)?

はい、はっきりと残っています。当時、しばらくは手を洗いませんでしたからね(笑)。現役引退後はチェコスロバキア大統領補佐官兼顧問(現:チェコ共和国)や国際オリンピック委員会の委員を務められましたが、当時はとにかく「可愛いお嬢さん」という感じでした。

秘密経路で間に合った水泳800mリレー銅メダルの瞬間
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水泳競技で唯一の日の丸が上がった競泳男子800mリレーの表彰式

—– 島田さんは、特に水泳が好きでご自身でも泳がれていると伺ったのですが、水泳会場での思い出は何かありますか?

とっておきのがありますよ(笑)。水泳で日本が唯一メダルを獲得した800mリレーです。

—– そのレースは、水泳の最終日にして最終種目でしたね。

そうなんです。「水泳ニッポン」ということで大きな期待を寄せられながら、それまで日本は一つもメダルを取ることができていなかったんです。しかし、最後の800mリレーには希望の光があるということで、当日私はほかの競技会場に詰めていたのですが、どうしても見たかったので急いで水泳会場に駆けつけたんです。ところが、最終日の最終種目で、国民の注目が集まっていたレースでしたから、会場も超満員で、全く入ることができなかったんです。それで、報道陣の腕章をちょっとお借りしまして、警備員にその腕章を見せましたら、すんなりと会場に入ることができました。でも、プールサイドへのドアは全て閉まっていて、入ることができなかったんです。

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競泳男子800mリレーで銅メダルを獲得しチームメイトと喜ぶ最終泳者岡部幸

—– もう、諦めるしかなかったと。

いえいえ、諦めきれませんでしたから、何かいい方法はないものかと周りを見たら、マンホールが目に入ったんです。それを開けて見ると、下につながる階段があって、しかもなぜかライトがついていたんです。それで思い切ってマンホールの下に降りてみたら、そこはプールの真下のようで、観客席からの声が聞こえてきました。そのまま真っ直ぐ進んで行くと、行き止まりになった所に、上につながっている鉄格子の階段があったので上って、「えいやー」とばかりに地面に出てみたら、なんとたどり着いた先は、ロイヤル席でした。プールの方を見たら、すでに最終泳者が泳いでいるところで、日本は岡部幸明選手が残り100mを切ったあたりでした。スタンドはもう総立ちでしたね。それでもう興奮してしまって、一目散にプールサイドまで階段を駆け下りて行ったんです。そしたら、誰かが「止まりなさい!」って私を追いかけてくるもんだから、そのままプールサイドを岡部選手と並走するかたちでゴールの方に向かって走りました。「岡部、頑張れ!」と叫びながら走りましたよ。「もうこれで捕まってもいい」とさえ思うくらいに感動していたんです。

—– 結局、警備員に取り押さえられはしなかったんですか?

あの時は、日本チームの銅メダルに会場中が興奮の嵐で、もう大変な騒ぎになっていて、警備ができないくらいにゴチャゴチャの状態だったんです。ですから、私も捕まえられませんでした。そのどさくさに紛れて、団長付の席にすっと入り込んで、何もなかったかのように席に座っていました(笑)。

—– それは忘れられない思い出ですね(笑)。

私の家には、オリンピック期間中、選手のご家族がホームステイをしていたんです。それでその日は、そのご家族とのちょっとしたパーティーが開かれていたのですが、私がいつまでたっても帰ってこないので、兄弟が「晴雄は、どうしたんだろう?」って母に聞いたらしいですね。そしたら、母は「晴雄は今日は遅いよ。だって、ほら、あそこを走っているじゃない」と、テレビ画面に映ったプールサイドを走る私を指差したそうなんですよ(笑)。

レガシーは「モノ」ではなく「心」
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選手村食堂前にて外国選手と

—– 閉会式後は、どんな役割を務められたのでしょうか?

帰国する選手団を、選手村から羽田空港までお見送りするという役割がありました。もう次から次へと選手団をお見送りした中で、特に印象深かったのがドイツとフランスでした。ドイツの選手団は例えば「11時10分に迎えのバスが来ます」と言うと、その時間に整然と待っていて、次から次へと乗り込むんです。そして、いざお別れとなった時に、全員で『私がまた帰ってくる日まで』というドイツの歌を合唱し始めたんです。そのシーンはとても印象深く残っています。そして、空港でもスムーズに飛行機に乗り込んで、誰にも迷惑をかけずに去って行ったのがドイツの選手団でした。「さすが、ドイツ人だなぁ」と感心しましたね。一方、そのドイツと正反対だったのが、フランスの選手団でした。バスに乗り込む際もバラバラで、なかなかことが進まないんです。ようやく全員乗り込んだかと思って人数を数えたら、30人いるはずが25人しかいないとかね(笑)。しかも、選手団の責任者も「オレの知ったことか」みたいな態度でいるんですよ。「本当に自由な人たちなんだなぁ」と思いましたよ。結局、空港へは選手村を30分ほど遅れての出発となりました。この2カ国がいい例で、それぞれお国柄がとてもはっきり出ていて、面白かったですね。

—– 違う国の選手同士が交流するシーンもあったのでしょうか?

ありましたね。選手同士で流行っていたのは、お互いの国のピンバッチを交換することで、その姿はよく見られました。それがオリンピックでは慣習化されていたみたいですね。私も選手からいただいたものが60個ほどありました。

—– 島田さんにとって、学生時代にオリンピックを経験したことは、今でも大きな財産となっていると思いますが、2020年東京オリンピック・パラリンピックでは、若い世代にどんなことを経験してもらいたいと思っていますか?

時代がまったく違いますからね。当時のように、日本はもう途上国ではなく、先進国を通り過ぎて、今や成熟国となっています。そういう中で若い世代は、国際社会の中で海外の人と一緒にやっていかなければいけません。また、日本の人口は当時は増加していましたが、今は逆に減少に歯止めがかからない状況です。ということは、マーケットがどんどん縮小してきているんです。ですから、企業はこぞって海外に出ていかなければいけなくなった。そういう厳しい時代の中において、2020年東京オリンピック・パラリンピックが開催されるわけですから、本当の意味で世界と一緒にやっていくという姿勢を示すことが必要になってくると思います。それを担うのは、これからの若い人たちだと思います。そして、我々の世代がアレンジをして、若い世代に体験してもらえるようにしなければいけません。2020年東京オリンピック・パラリンピックは、そのいいチャンスととらえられると思います。

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島田晴雄氏 インタビュー風景

—– 今の日本でオリンピック・パラリンピックが開催される意義というのは、どこにあるでしょうか?

2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定して以降、競技会場をどうするかということが問題となっていますが、私に言わせれば、そんなものはどうってことないんです。本当のレガシーというのは、「モノ」ではなく「心」。それ以外は必要ありません。1964年の時代よりも、今の時代の方が、オリンピック・パラリンピックから学ぶべきことはたくさんあると思います。

ひとつは、競技に対する姿勢です。特に、言ったことを「言っていない」などと平気で嘘をつくような政治家や企業のトップには、ぜひ選手たちから学んでほしいと思います。選手たちは相手よりも強くなりたいと、非常に大変な思いをしながら努力をして、戦う準備をするわけです。そうして、本番ではルールに基づいてフェアプレーの精神のもとに本気でぶつかっていく。そして試合が終われば、あれこれと言い訳をせず、勝ち負けを認め、そして握手をして相手の健闘を称え合いますよね。これがスポーツのいいところです。

オリンピック・パラリンピックでは、そうした本気になって努力することの素晴らしさと、フェアプレーの精神を学んでほしいと思います。もうひとつは、異文化交流です。2020年には相当な数の外国人がどっと日本に押し寄せてくるはずですから、ぜひそういう人たちとの交流を楽しんでほしいなと思います。