これは私の幼少の思い出である。
鮮烈に覚えているのは、絵を描いていた自分である。
木々が凍りついたように立ちすくんでいる静かな冬の朝、また早暁の縁側の外の青暗い庭がしだいに明るくなってゆく時、バスの窓から濡れた夜の通りに車のランプや店の灯りが映える時。そんな風景が私の網膜に焼き付き、真剣に絵筆をとっていた。
そんな思い出のひとコマを伝える数枚の写真と記事が私の手許に残っていた。
それが散逸し消滅してしまう前に、ささやかなこのパンフレットの形で、幼い日の印象を記憶しておこうと考えた。
私が生まれたのは1943年の2月21日。東京の自由が丘である。晴れた早朝だったので、父が晴雄という名をつけたそうだ。サラリーマン家庭の兄2人と姉1人の後に生まれた3男である。
東京はその頃しばしばアメリカ軍の空襲に見舞われていた。終戦の日には私は丁度2才半になっていたわけだが、私の記憶の中に夜空がメラメラと明るくなった瞬間の残像がかすかに残っている。
客間の天井の隅に長男がつくった迷彩色のB29の模型がつり下げられており、私はそれに向かって盛んに「ビジュクチャン(B29)のバカ!」と叫んでいたそうだ。
戦後の東京の焼け跡の記憶は断片的に残っているが、戦前を知らない私にはそれは所与のものであり、強い印象はない。
ある日、買い物に出た母の後を追って家を出た。そのまま迷子になり、見知らぬ道を数時間歩き続けた後、運良く言えに辿り着いた。その時のよそよそしい、とりつく島のない街の表情と、あてどもない咽喉の渇きがなぜかそのまま記憶として残っている。
家には戦災で全てを失った新潟県長岡の母方の祖父が同居し、南太平洋の戦地から命からがら帰還した叔父(母の弟)が一時寄宿をしていた。
母は生家が洋服店で、裁縫が上手だったようだ。裁縫の内職で家計を助けていた。ドイツ製の堅牢なミシンを踏む姿が日常だった。
その祖父が死んだ。次兄が祖父は死んだのだと教えてくれた。顔に白い布がかけられ、線香が焚かれ、日頃見知らぬ人々が出入りしていた。兄と私は門の外ですることもなく立っていた。
強い西陽が乾ききった土の道に照り返し、なぜか無性に喉が乾いた。気がつくと、母が一生懸命作ってくれた一張羅のジャケットの隅をハサミで切ってしまっていた。なぜそんなことをしたのか今でも判らない。
食糧難の時代だったのだろう。5人の子供のためを思って、両親は住宅地の家の狭い庭でヤギを飼い、ニワトリも飼った。
長兄は科学少年だった。「ポピュラーサイエンス」という少年科学雑誌の愛読者だった。何でも知っている物知り博士だった。兄の言っている事を私は耳を澄ませて聞き入った。そして翌日には近所の子供仲間にそれを得意に喋っていた。
姉は発育が良く、近所のガキ大将だった。兄や弟がいじめられると必ず押しかけていって、殴り返してくれるという頼母しい存在だった。
次兄は一本気で、曲がった事が嫌い、よく長兄と喧嘩をしていた。幼い時の事故がもとで一方の聴力が不自由だったが、負けん気が強く、大きな目標に挑戦した。
後年美術大学から大手の建築会社に入り、都市計画デザイナーを目指したが、不慮の水の事故で亡くなった。・・・24才だった。
私はその頃大学院生だったが、葬儀も済み、研究のために国会図書館に通っていた頃、ある時、図書館のカフェテリアのガラス壁の向こうの風景が突然奥行きのない貼り絵のように見え、呼吸が苦しくなる気分に襲われた。しばらくの間、兄はなんども夢の中に現れた。兄の死は私にはどうしても受け入れがたい出来事だった。
弟は感性が鋭く、幼い頃からいい加減な妥協を許さない性格だった。
そんな兄弟が父の後について、毎日のようにヤギのエサとなる草をとるために、手にカマを持ち、背にカゴを背負って草刈りに出かけた。
私達の家は自由が丘の山の手にあり、その当時は旧日本軍が作った開成道路(いまの目黒通り)を越えれば、もうそこは草深い農道と竹藪だったのである。
若々しく瑞々しい草の束をつかみ、鋭いカマで一気に刈り取る時、新鮮な草の香りが鼻をつく。それを食べる時のヤギの嬉しそうな表情が目に浮かび、なぜか自分でも美味しそうに思えるのだった。
兄弟はしばしば朝のジョギングをした。吐く息が白く、冷たい風が火照った身体に心地よい冬のジョギングが思い出に残る。
幼児の頃、敗戦直後の食糧難のせいもあってか、私は発育が悪く、また、病弱だったらしい。一度、腹膜炎を患って、腹の中に水がたまり、回復に時間がかかったという。風邪を惹きやすく、そんな私が満足に育つかどうか、両親は心配したようだ。それだけに、兄達について走るのは楽しいことだった。
その頃の東京は冬には必ず何度か雪が降り積もった。玄関先の杉の枝や、南天の繁みにぶ厚い雪が枕を置いたように積もり、翌日の朝日を浴びて少しずつ溶けはじめる。したたる水滴が通路脇にフトンのように積もった雪に穴を開ける。その穴から下草の“龍の髭”や“雪の下”が顔を出す。そんな風景を眺めているのが好きだった。そして絵に描いた。
ニワトリも何羽も飼っていた。白色レグホーン、名古屋コーチン、チャボ、・・・色々な種類が居た。卵を孵化するニワトリは特別待遇で庭の小屋ではなく、家の中の特製の段ボール箱で卵を抱いた。
ニワトリはとりわけ私の興味を惹いた。胸を突き出して首をリズミカルに前後に打ちつけるように歩く。せわしなく、飯をついばむ。ヤギに比べれば感情表現は目立たないが、よく観察すると一羽一羽に個性があることに気づいた。ニワトリをじっと見つめていると、彼等が丸く見開いた瞳の奥で、一体何を考えているのかを想像したくなった。そんなニワトリの姿を私は描いた。
二人の兄は絵が得意だった。母は兄達が通って居た小学校の教頭先生で絵の先生でもあった増田先生に頼んで、日曜日に自宅で開く絵画教室に二人の兄を通わせていた。私は兄達の後について毎週増田先生のアトリエに通った。
増田先生の家は私達の家から歩いて30分程の隣町の九品仏にあった。先生は私には何の関心も払わなかったが、兄達と同じ教室に通うことが私には得意だった。帰途は日曜日の昼下がり、通りすがりの家々からはNHKの喉自慢大会の歌声が必ず流れてくる。私はいつしかそれを覚え口ずさむようになった。意味も判らず大声で歌っていたのは当時流行した「湯の町エレジー」だった。
増田先生のアトリエに通うのは楽しかったが、先生の指導にはひとつ強い違和感を覚えるところがあった。先生は生徒達が描いた絵を並べてそこに筆を入れるのである。
生徒が描いた花瓶や皿やさまざまな静物のモチーフに先生は濃い青や茶色でくっきり筆を入れ、濃淡を浮き立たせた。それで絵が生きてくるという説明だった。先生は決して黒を使ってはいけないとも教えた。しかし幼い私にはそれらの意味は全く判らなかった。むしろ逆に先生が手を入れたため絵の個性が消えてしまうようにしか見えなかった。
やがてそんな先生の絵画教室に通うのがつまらなくなり、いやになり、通うことをやめてしまった。そんなある日、家に米を届けてくれる近所のお米屋さんから母が耳寄りな話を聞いた。私達の家の近くに岡田謙三というなんでも大変偉い絵描きさんが住んでいるという話しである。
そんな偉い絵描きさんが私のような幼児に絵を教えてくれるかどうかは全く判らなかったようだが、子供の事ならどんな苦労もいとわない母は早速私を連れて、岡田画伯のアトリエを訪ねた。
玄関にあらわれた岡田先生は背が高く、目が大きく、口ヒゲをたくわえた偉丈夫だった。思えば後に観たイギリス映画「赤い靴」(1946年制作)のプリマ役で主演したモイラ・シャーらの相手役だった二枚目俳優、アントン・ウォルブルック(福岡翼氏の博識による)にそっくりな風貌だった。
先生が週末にお弟子さん達を集めて絵画教室をやっておられたということを聞いた母は、一生懸命に私をその仲間に加えてもらうようお願いしていたようだ。しかし状況があまりかんばしくないらしいことは子供の私にもその場の空気で察せられた。
要するに岡田画伯のアトリエは立派な大人達が集まるところで、幼児の来るところではないということのようだった。私は先生の目の前に立って、岡田先生の顔を真剣に見つめていた。
それから母が岡田邸に何回通って、どう頼んだのかは私は知らない。しかしとうとう岡田先生のアトリエに通わせてもらえることになった。
ある週末の午後、私は買ってもらったばかりの油絵の道具を抱え、母に連れられてアトリエを訪ねた。ニス塗りのピカピカの木箱の中に、12色入りのホルバイン社の絵具、数本の絵筆、そして折り畳み式のパレットが収められている。テレピン油の入った筆洗もある。私にとっては真新しい宝箱だ。母はその木箱をつつみ、肩から下げられるようにベルト付きの特別の布製ポシェットを作ってくれた。私は得意だった。
アトリエにはもう何人かお弟子さん達が集まっていた。皆、私の母に近い年齢の人達で、一人だけ、学生と称する男性が居たが、私から見ればかけ離れた大人だった。裕福そうな会社役員夫人、中年の貫禄ある会社の管理職の男性、やさしそうな学校の女性教師、などといった人達がかりである。
その日のモチーフはヌードだった。寒い日だったが、アトリエには使い込んだ大きな石炭ストーブがあり、火が赤々と燃えて、天井の高いアトリエは暖かかった。
モデルの女性が服を全部脱いで、皆の前に立ちポーズを取った。皆は真剣にイーゼルに掛けたキャンバスに描き始めた。それを見て私も画用紙にスケッチした。しばらくすると、休憩。モデルはストーブの傍へ行って暖をとり、また元の場所に戻って画業が続いた。
決められた時間が過ぎ、モデルさんは居なくなった。アトリエの壁の前に皆の絵が並べられ、先生の講評が行われる。先生が何を言っているのかは、私はその意味がよく判らなかったが、皆が真剣に聞いている事だけはよく判った。岡田先生は増田先生と違い、人の絵に手を入れることは決してしなかった。
アトリエに通ううちに、大人のお弟子さん達と親しくなった。やさしく声をかけてくれる人、絵本をプレゼントしてくれる人など、皆親切だった。
モチーフは週によって様々だが、ヌードが多かった。
私が純心にモデルの姿をキャンパスに描いていると、しばしば岡田先生は背後でそれをジッと見つめていた。後ろを振り向かずにもなぜか先生の真剣な眼差しを鋭い電光のように感じる思いだった。
すると私は自然に得意になって筆が走り、何本も線が流れる。そんな時「アーダメダメ」という先生の小声のつぶやきが聞こえる。しかし先生はそれ以上何も言わなかった。
注意を受けたり、教えられたりした記憶はほとんどない。しかし先生のアトリエでモチーフに向かう時の気持ちは、他にはない別世界だった。何も言葉をかわさなくても、先生は私の全てを判っているような気がした。私はただ無心に絵を描き続けた。
後年、先生が亡くなられてから朝日新聞社が主催した岡田謙三展を観に行き、先生の生涯の主だった作品群を初めて一望して、先生の画風が忠実な写実主義から幽玄な抽象画に変化する重要な節目の数年間に私が先生のアトリエに通っていたことを知った。
この時期は岡田謙三という天才画家の精神が発する無言の薫陶を受けたという意味で私の人生にとってはかけがえのない貴重な期間であったが、岡田先生にとっても特別な意味を持った時期であったようである。
週に一度、岡田先生のアトリエに通いながら、私は家でも画想のインスピレーションが湧いた時には取り憑かれたように絵を描いた。早暁の庭、朝陽を浴びて溶け出す前夜の雪、庭の栗の木の幹の皮を食べるヤギ、せわしなくエサをついばむニワトリ、等々。
早朝に絵を描くことが多かった。そして入学したばかりの小学校に出かける。2km程の距離だが、なぜかいつも頭が重く、頭痛があり、冷たい手を額に当てながら、通学路を通っていた記憶がある。
母は絵の勉強になると言って、週末にはよく美術館に連れていってくれた。上野の国立美術館、京橋の近代美術館など多くの美術館に巨匠の名画が展示されると聞けば出かけ、春や秋の展覧会があると言えば出かけた。
幼い私の脳裏にピカソ、マチス、モネ、セザンヌ、レンブラント等々の作品がいつのまにかしだいに焼き付いた。
当時、小学生や中学生の写生大会や展覧会が盛んだった。私も兄達と一緒によく参加した。そして、私の絵はそのつど金賞や銀賞をとり、入賞作として美術館に展示されることが多かった。
そんな私を「豆画伯」と呼んで、雑誌などが取材に来た。このパンフレットに再録してある『婦人朝日』の記事は今たまたま手許に残っている取材記事のひとつである。この記事によれば当時、豆画伯ブームとでもいった現象があったらしいことがうかがわれる。
そんなある日、アメリカの雑誌「LIFE」の記者が私を取材に訪れた。当時、話題になっていた何人かの豆画伯といわれた子供のなかで、「LIFE」が取材したのはなぜか私だけだった。
「LIFE」誌の記者は、岡田謙三先生や私の両親の取材もし、またカメラマンと一緒に岡田先生のアトリエの様子も撮影した。このパンフレットに収録されているのは、その記事が報道された1950年1月23日号アメリカ国内版のものである。
この号には、ひとつの興味ある特集記事が組まれている。それは、中華人民共和国の建国に関する特集だ。これはその後の世界史を規定することになった大きな出来事だが、「LIFE」誌ではわずか7頁をその報道に割いているだけである。当時のアメリカは地球上のGDPの約半分を一国で生産する唯一無比の文字通りの超大国であり、共産中国の誕生は、アメリカの視野の中ではそれほど重要な事件ではなかったのかもしれない。
戦災で破壊され、その廃墟の中からようやく立上ろうとしていた被占領国日本の、小さな子供が絵を描いている様子を、1頁を費やしてアメリカ国内版で報道しようとした「LIFE」誌がどのような編集上の意図を持っていたのかは今となっては知る由もない。
当時の私には、「LIFE」誌がどのような雑誌か、アメリカがどのような国なのかも、想像のつきようもなかった。両親も占領軍の国の有名な雑誌という以上の理解はなかっただろう。
取材の記憶もおぼろげになっており、私達の手許にはその資料もほとんどなくなっていた。唯一残っているのは、私の記事を含む雑誌の断片だった。その印刷も年月の経過とともに劣化しかけていた。
ほぼ完全な形でこの号を入手してくれたのは私の親友であるミシガン大学(当時)ロバート・E・コール教授であった。同氏は、「LIFE」誌の取材の話を私から聞いて知っており、ある時、ワシントンD.C.の古本屋で偶然この号を見つけ、私に送ってくれたのである。
岡田謙三先生のアトリエに通った期間は長くは続かなかった。先生がアメリカに移住されることになったからである。
先生には、日本の画壇や御自分の人生と仕事についての多くの思いと考えがおありだったのだろう。どれほどの思いでそうした決断をされたのかは、私には判らない。
ある日、アトリエに通っていたお弟子さん達や御親戚のごく親しい人達だけの内輪の送別会が先生の御自宅で開かれた。皆、思い思いのプレゼントなどを持ち寄ってのささやかな午後の集まりだった。私の母は手作りの砂糖菓子をケースに並べて持って行ったのを覚えている。もうひとつかすかな記憶にあるのは、先生がいつになくおどけて皆を笑わせていたことだった。
1950年の春のある日、岡田先生は、当時、日本とアメリカの間の太平洋航路に定期便を運行していたプレジデントラインのウィルソン号上の人となった。
この日の朝、NHKのローカルニュースが岡田先生がアメリカに発つ事を短く伝えたのを私は覚えている。
ウィルソン号が停泊していた横浜の埠頭は、見送りの人々でごったがえしていた。その人混みの中から、私達、岡田先生の関係者は、船上の先生に別れの手を降った。春とはいえ、陽光がまぶしく汗ばむような日だった。
私達の後に、大きなソンブレロをかぶり花模様のドレスを着たひと際目立つ美人が熱心に手を振っていたのを覚えている。有名な女優の木暮美千代さんだったとあとで聞いた。
岡田先生は何人もの見送りの知人にテープを投げ、七色のテープを何十本も握りしめて、大きな身振りで快活に振舞っていた。ウィルソン号は何度か汽笛を大きく響かせながらゆっくりと埠頭を離れた。
岡田先生は片手に握りしめた何十本ものテープを風になびかせながら手摺の上に身を乗り出して他方の手を大きく振りつづけていた。その姿も次第に小さくなり、やがてウィルソン号の白く輝く船体も水平上の点となり、そして見えなくなった。
あとで聞いたことだが、岡田先生は、第二次大戦敗戦後の日本の学校教育に批判的で、私の母に、私を小学校に行かせず、専ら絵の勉強をさせてはどうかと勧めたことがあったという。また、先生は渡米が決まってから、先生が日本で信頼している数少ない画家の一人(女流画家だった)を紹介し、私の指導を引き継いでくれるよう彼女に頼んでくれたという。
しかし、私はいずれの道も選択しなかった。岡田先生のアトリエに通い、その薫陶を受けたことは特別な経験であり、それは他の方法で代替することはできないように思い決めていたように思う。
岡田先生の渡米後、小学校での絵の時間は私には違和感があり、なかなか馴染めなかった。担任の幸田先生は親切な中年婦人で、身体も小さく病気がちな私が絵を得意だということで特別な扱いをしてくれた。画用紙が貴重で、クラスの他の子供達が劣質なワラ半紙を使っている時に、私にはその4倍もある上質の画用紙を与えてくれた。
学芸会の日には、演劇用の舞台の袖に、イーゼルがしつらえられ、私は全校生徒の視線を一身に浴びて、大きな絵を描く特別な機会が与えられた。
しかし、そうした特別な環境の下で描く絵は、私には、自分の絵ではないように思われるのだった。それは本物ではない空虚な体験に過ぎないように思われた。
絵をめぐって学校で与えられる環境と私の内面心理との間には次第に違和感が大きくひろがっていった。絵を描くことが上手であるとか下手であるとか、良い絵であるとか悪い絵であるとかという評価がなされること自体が空々しいことのように思われた。
一体何の根拠があって人の絵を評価することができるのか、人が描いた絵に優劣をつける正当性が果たしてあるのか。
絵を描くということは、もっと真剣な営みなのではないか。このような私の疑問、あるいは私自身の内面的な問いかけの原点には、ある時、美術館で見たスペインのアルタミラの洞窟に残されていたという原始人の野牛の絵があった。
原始人にとって、野牛はいうまでもなく命の糧であり、その最も大切な対象を彼等が洞窟の壁に描こうとしたことはよく理解できる。その壁画のコピーの中で私が最も感動したのは、野牛かどうか必ずしも判別できないほど単純な一本の線画だった。
その軌跡からは何を書こうとしたのか必ずしも明確ではないが、しかし、壁に刻み込まれたその一本の線に、私は、それを刻み込んだ原始人の思いの全てが込められるように感じたのである。生きているということへの感謝と喜び、そして万感の全てがその一本の線に込められているように思えた。
その時の感動は、絵を描くということの最も純化した姿は、生きることそのものなのではないか、という考えを私の心の中にしだいに芽生えさせた。芸術とは、すなわち生命そのものなのではないかという考えである。
芸術には音楽、舞踊、書道などさまざま表現形態がある。それらの中で、絵画は、最も単純であり、それだけに最も純粋な芸術であるように私には思われた。なぜなら、楽器を演奏したり、書を書くためには、楽譜や文字を覚え、かつ楽器や筆運びに習熟する必要があるが、絵は、誰にでも描けるものと思ったからである。
そう信じた根拠はアルタミラの洞窟に描かれた一本の線であった。最も単純で最も純粋な絵画がこそ、人の生命の最も直截な表現であるという信念をいつしか私は持つようになっていた。
小学校も6年生になる頃、私は慶應義塾の中学校の入学試験を受けるために準備をすることになった。慶應義塾は一貫教育で知られるエリート校であるが、私の両親は、一貫教育の下では、一度そのシステムに入ってしまえば大学に行くまで入学試験がないから、やがていつか気が向けば絵でも描くようになるだろうという配慮があったようである。
受験勉強は時間がなかったので非常に集中的だった。ある小学校のベテランの先生に家庭教師をお願いし、算数、国語、社会、理科など沢山の宿題を出してもらい、試験の練習を繰り返した。酷暑の夏も連日、全身に汗を流しながら、終日、漢字を覚え、歴史を勉強し、算数の問題を解いた。
慶應には普通部と中等部の2つの中学校があるが、その入学試験は、その当時は他のほとんどの有名中学校よりも一ヶ月ほど早く、全国の中学受験生の腕だめしの場になっていた。中でも人気が高く難関とされた普通部はその年22倍の倍率だった。
正月明けすぐ受験の申し込みがあり、父が朝4時前に起きて普通部に願書を提出に行ったことを覚えている。日吉の駅を降りると受験生の親達は若い良い番号をとろうと1kmほど先の普通部の校舎まで我先に駆け足になって競争をし、数時間後に受験本部の窓口が開くのを焚火を焚いて待ったのだという。
父は114番という幸先の良い受験番号をもらってきてくれた。114番を私たちは“いいよ”と勝手に解釈したのである。
わたしの番号より、数番前に、中沢彦八という受験生がいた。彼は私の2倍ほどもある巨漢だが、2次試験では隣り合わせになり、凸凹コンビと言われた。東京の中央区で300年近くもつづいた酒屋の老舗の跡取りだという。彼とはその後、永いつき合いになった。とくに、彼の妹、君子と私が、後に結婚したからである。
母は受験のために慶應の三色旗に似せた青赤青のセーターを編んでくれた。
試験の結果、私は普通部にも中等部にも合格し、私は歴史も古く、名門校とされた普通部に入学することとした。普通部は男子だけの中学で、慶應幼稚舎(小学校)からの内部進学の学生と私達外部から受験をした学生が半々で構成されていた。
新学期の最初の授業の日、私は5クラスのうちE組に編入され、先生から第2級監(クラス委員)に指名された。第1級監は幼稚舎出身生である。最初の指名は成績順とのことで、私はおそらく、受験生のうちトップ5番以内の成績だったのだろう。
普通部の先生達は担任の西村芳雄先生をはじめ皆、教育熱心で心配りがあり、学生達は育ちの良い子供達が多く、学校は良い雰囲気だった。絵の先生は、山下先生という年配の先生で、一家言のある画家だった。学校の校舎にはところどころに先生の立派な絵が飾られていたが、私は先生の教授法を素直に受入れられなかった。
先生は絵の時間に学生に手やカバンなどのデッサンをさせ、それらの絵に点数をつけた。そして特によく描けた絵には、100点何枚分という形で点数を増やす評価をした。
先生は、学生達の成果を正当に評価し、努力を刺激するためにそうした方法を採られたのだろう。私は皆と同じ大きさの絵を描いても、ほとんどいつも、皆の4倍ほどの点数をもらった。しかし、こうした評価法に私は強い違和感を持った。
私の違和感の根源は、絵は生きていることの表現、つまり生命そのものの表現であり、生命の価値に優劣はつけられないという私の独自の信念だった。
その違和感がやがて山下先生と衝突する事件に発展した。山下先生がある日、私が多摩川の風景を描いた私の絵をクラスで皆に示して「この絵をもらいます」と言われた。先生は近く普通部に美術室がつくられるので、その部屋の教材のひとつに私の絵を加えようという善意でそう言われたのだろう。先生は、私がそのことを名誉に思い感謝するはずだと思われたに違いない。
ところが、先生の言葉を聞いた時、私の心の中で先生に対する違和感は頂点に達した。授業の後、私は職員室に出かけ、山下先生に面会を求めた。そして、先生に向かって「絵は生命の表現であり、自分の子供のようなものです。それを断りもせず“もらって行く”というのは子供の誘拐のようなもので、すぐに返して下さい」と言った。先生はあまりのことに言葉が出ず、青醒めるほどの怒りが顔面に溢れてくるのがわかった。私は頑固に教員室に出かけ、返却を要求しつづけた。・・・・・そして数週間後、絵は返却された。
それから20年ほどの後に、私は慶應大学の助教授になっていたが、私が普通部生だったころ、普通部の部長をなさっておられた峯村光郎教授が、私も参加した労働問題の研究会のあとで、思いがけず、私に当時の話しをしてくださった。峯村先生は法学界における法哲学と労働法の泰斗で、当時、公共企業体等労働委員会の会長もされていた。普通部長の時代には、つねに学生に自尊心と誇りをもつことを説いておられたことが記憶に残っている。
峯村光郎教授のお話では、山下先生にたいする私の行動について、教員の意見は二分されたという。許し難い行為であるとして退学処分すべきだという意見と、未熟な学生の行為なのでしばらく様子を見るべきだという意見である。教員の議論は決着がつかなかったので、校長の峯村先生が「まだ将来の可能性のある子供のことだからこの事件は私に預からせてもらいたい」として引取って下さったという。
これが私が峯村先生のお話を直接伺った最後だった。その数年後に先生は他界されたのである。教員の議論がつづいている間、母は何度か事情聴取のため普通部に呼び出されたらしい。しかし、そのことを母は私に一言も言わなかった。私の考えを尊重してくれていたのだろう。それと知らぬ私はなんども教員室に返却を要求しに出かけていたのである。
私はやがて、本気で絵を描かないようになった。慶應の一環教育の下では絵を描くゆとりを持ちやすいだろうと考えてくれた両親の配慮は結局生かされなかった。
私は弱小な身体を克服すべく、ジョギングに精を出した。私を駆り立てたのはヘルシンキオリンピックで長距離競争の3冠王となったチェコのザトペック選手の走りぶりだった。歯を食いしばり今にも死にそうな形相で、しかし人間機関車といわれた見事なペースで疾走するその姿に、私は人間が白熱する美しさを見たのだった。
次に柔道部に入った。小柄でも大きな相手を倒す技に惹かれたのだろう。背負い投げが好きだった。しかしある時、寒稽古でひどい風邪を引き、高熱を出して寝込んだ。
高等学校に入ると、誘われて端艇部に入った。体が小さいのでコックスとしてスカウトされたのである。慶應大学はメルボルンオリンピックに日本代表として参加したボートの名門校である。私の学年は東京オリンピックには大学4年になる。東京オリンピックに向けて選手の養成強化に着手した日本漕艇協会は、その慶應大学の附属高校の端艇部の私たちに着目した。
5年間の強化養成プログラムが組まれ、私達高校2年生を中心にオリンピックに向けた全国選抜クルーが組織された。私はその代表コックスになったのである。
合宿につぐ合宿、そして激しい練習の毎日がつづいた。弱小だった私も鍛錬に次ぐ鍛錬で筋肉が強化され、たとえば鉄棒の懸垂では連続41回の記録もつくった。しかし、その生活は長くはつづかなかった。
雨の日も風の日も、固いボートの艇尾に座る毎日が災いして、幼い頃にも患った痔が悪化したのである。私はチーフコックスの座をサブコックスの万代治君に譲り、端艇部をやめざるを得なかった。万代君はその後東京オリンピックの日本代表クルーのコックスとして活躍した。
それからほぼ40年経って、私は慶應大学の教授として、体育会端艇部の部長を引き受けることになった。諸先輩はじめ万代君ら同期の仲間の推薦だそうである。実際に艇に乗っていた人間が部長になるのは数十年ぶりとのことで諸先輩から歓迎され恐縮している。
痔による挫折がいかにも残念だった私は、残された高校生活の夏を水泳部に注いだ。プールでの競泳でなく、海の遠泳部門である。水泳はその後、私の最も好きなスポーツになった。
そんな頃、父が他界した。数年来、癌を患い、入退院を繰り返す闘病生活を送っていたので、私達家族は覚悟はしていたが、あまりにも早い逝去だった。人生これからという時に、短すぎる生涯だった。
父は千葉の海辺の待ちで育ったので、元気な頃は水泳が得意だった。私が小さくてまだ泳げなかった頃、父の背中に乗って海を散歩するような気分を味わった思い出がある。大きなウミガメに乗っているような安定感だった。
父は若い頃、英語が好きで、熱心に独学をしていたらしい。占領軍の軍属の人に知り合いが出来、そのことが、後の「ライフ」誌の取材につながったのかも知れない。しかし、今となっては、そうした関連はもはや知る由もない。
私が幼い頃、父は私をしばしば「秘蔵っ子」と言って人に紹介していた記憶がある。しかし、私が学校に行くようになってからは、父とスポーツをしたり、議論をしたりした思い出はあまりない。
普通部に通っていたころ、家族は海辺に休暇に出かけ、私だけが途中で、柔道部の練習のために帰宅することになった。父は家で療養をしていたのが、翌日の早朝、父は出かける私をバス停まで見送ってくれた。まだ明け切らない夏の朝靄のなかで、いつまでも手を振ってくれていた浴衣姿の父の姿がいまでも鮮明に私の記憶に残っている。
大学に進学し、志望どおり経済学部に入った。とくに経済学に関心があったわけではないが、世の中の動き全体にかかわる社会科学に漠然とした興味があった。
入学と同時に私は英語会に入った。クラブの集まりでは片言の英語を組合わせてなんとか適当な会話をしていたが、半年も経つとそうはいかなくなった。私のような慶應高校からの進学ではなく、外部の高校から厳しい入学試験を経て入学してきた学生達との基本的な学力差があらわれ、私は仲間のレベルについて行けなくなったのである。
父が亡くなっており、学費を稼ぐために何軒も家庭教師のアルバイトをしていたためもあって英語をしっかり勉強する時間もなかった。忙しかったが、私はある日、秋学期が始まった頃、退部をする決心をした。その日のワークショップで、私は立上り、“I shall return”と言って部屋を出た。
“I shall return”と言ったからには、捲土重来を期さなければならない。そこで私は自分自身に特別な訓練メニューを課すことにした。まず中学校から高校までの英語読本(リーダー)を何十回となく大きな声で朗読する。
次に自分の好きなテーマを選んで7〜10分ほどのスピーチ原稿を日本語で書き、それを翻訳する。その英語原稿を近所の教会の米人宣教師に直してもらい、テープレコーダーに吹き込んでもらう。そのテープを何回も聞きながら、空で覚え、表情や身ぶりも入れて数百回も暗唱するのである。
朝起きてから夜寝るまでに、1日10〜15回くらいは暗礁の練習ができる。歩きながらも電車の中でも声を出して暗礁をつづけた。数ヶ月間、毎日毎日練習をつづけ、やがて、スピーチのレパートリーも3つにふえた。
遂にその成果があらわれる日が来た。翌年春の日吉キャンパスのスピーチコンテストで、私はアメリカなど英語圏からの帰国子女の競争相手を抑えて3位に入賞したのである。そして、その後の全塾スピーチ大会でも入賞した。
3年になって三田キャンパスに進むと、私は立候補してKESSの副委員長になった。担当はディベートだった。毎日ディベートのテーマを探し、新聞や雑誌に目を通して、KESSの仲間のために、議論の素材づくりをつづけた。下校してからは、毎日何軒も家庭教師のスケジュールが詰まっており、キャンパスではMr. Tabo(多忙)がニックネームだった。
3年生の秋、KESSの委員長と組んで二人制の全国ディベート大会に出場した。優勝候補だったが、チームワークに問題があって準決勝で破れ、連続優勝など輝かしい戦績を残している先輩諸氏から厳しく批判された。
一方、学業の面では、私は労働問題を専攻する川田寿教授の研究会に入った。人間行動に興味があり、人々の行動を需要曲線と供給曲線の単純な図式で説明する理論経済学よりも、人間臭い労働問題の研究に親近感を覚えたからである。
川田先生は、1930年代に慶應大学に在学中、過激な学生運動に身を投じ、治安当局の弾圧を逃れてアメリカに渡り、ニューヨークで労働運動に加わり、日米開戦直前に日本に強制送還された。ところが反体制運動抑圧のためデッチ上げの「横浜事件」に巻き込まれて、戦争中4年間投獄され、戦後改革の嵐の中での労働運動を経て、大学の教職についたという異色の経歴の持ち主である。
大学4年生の秋、東京オリンピック大会が開かれた。私は、全国から2000人採用された学生通訳のトップ10人に入り、主要国の団長付き通訳の立場を与えられた。
オランダの団長付き通訳の予定だったが、オランダ選手団長がオランダ語の通訳を希望したので、私は団長付きの資格のまま自由な遊撃手の立場となり、会期の一ヶ月前からプレスセンター、選手団が到着しはじめると空港、会期中は、開会式、各種競技の決勝戦、そして閉会式の後には、各刻選手団の帰国の世話など、最も忙しい場所で仕事をした。
そんな立場だったので、多くの国の選手達と親しく接することができた。東京オリンピックの花といわれた体操のベラ・チャスラフスカ選手をはじめ、多くの名選手と親しくすることができたことは生涯忘れられない青春の思い出である。
その2ヶ月ほどの期間、他の授業はほとんど欠席したが、川田先生のゼミだけは、仕事をやりくりしてできるだけ出席した。時間が限られているので、その都度、オリンピックの五輪の小旗をつけた黒塗りの公用車で大学に駆けつけ、学生仲間の注目を浴びた。
卒業の際には、成績優秀者として表彰され、賞品の金時計をもらった。4年間で56科目を履修し、そのうちAが52個だったが、これは歴史的記録だそうである。高村象平慶應義塾長から賞状を拝領すると、私はこんどは広い会場の学生仲間や父兄の方を向いて感謝の気持ちで一礼した。表彰学生のなかで観客に向かって礼をしたのは私だけだったので、これを見ていた中沢の父(後に妻となる君子の父)はいたく感心したという。
大学を卒業し、大学院に進んだ。卒業を前にしていくつかの企業から内定をもらっていたが、指導教授の川田先生の強い勧めもあって、大学院に進むことにしたのである。
修士号を取り、博士課程に進んでほどなく、フルブライト奨学金を得て、労働問題の研究と教育で有名な米国のコーネル大学に留学することになった。留学が長引く可能性があるということで、留学の直前に、中沢君子と結婚をした。
アメリカでの初めての冬、君子と二人でニューヨークのグリニッチ・ビレッジのアトリエに岡田謙三先生を訪ねた。先生は、アメリカの画壇で高名な画家になっておられたが、心臓を患っておられた。
私が経済学者をめざして留学し勉強中であることを報告すると、「銀行家と経済学者は大嫌いだ」と言われながらも、私達夫婦を歓待して下さった。私が母に連れられて、岡田先生のアトリエを初めて訪ねた時、先生は私の入門を断ろうと思われたそうだが、「君がこわい顔をして私を見つめているので、入れることにしたのだよ。」と昔の思い出話しをして下さった。
先生はまた、ニューヨーク州北部のレンセラービルの丘に大きな館を持ち、奥様が若い芸術家達の面倒もみておられた。別の機会にその館に滞在し、ニューヨーク州の田舎の自然を満喫させて戴いたこともある。
先生はそれから数年後に他界された。ニューヨークタイムス紙が先生の死を惜しむ追悼記事を掲載したのを覚えている。
コーネル大学で一年間を過ごした後、アメリカの労働研究のメッカとして知られたウィスコンシン大学に移籍し、そこで、長女の晴子が生まれた。4年近く滞在し、労使関係の分野で博士号を取得した。多くの素晴らしい先生や友人に恵まれ、実り多い研究生活だった。のちに、1995年5月にウィスコンシン大学創立150周年を記念する国際大会(International Convocation)に、世界中で活躍する約8000人の卒業生のなかから選ばれた3人の一人として、母校で講演する機会を与えられたが、それは君子と私にとって言葉では言い尽くせない喜びであった。
慶應義塾大学での指導教授だった川田寿先生の親友であったソロモン・B・レビーン教授夫妻は、私達の実の親のように私達家族に暖かい愛情を注いで下さった。この文章を英訳してくれた労働運動史研究家のチャールズ・タクニー氏はレビーン教授の弟子でもある。ウィスコンシンでは、後にMITの教授になったトーマス・コーカン氏をはじめ、多くの一生の友人に恵まれた。
帰国後、次女のまどかが生まれた。その後、長女の晴子は学習院を卒業して電通に勤めた。まどかは東京大学を卒業して、弁護士になった。その後、晴子は園生賢一と結婚し、孫の悠太が生まれた。私にとって、この半世紀余りは、両親と家族、素晴らしい師、友人、そして多くのひと他人の愛と支援に恵まれて、反省を送ることができた。心からの感謝の念とともに、これからの半生について思いを新たにする昨今である。
追記:この文章を書き終えた頃、私の母が他界した。母は晩年、東京の喧噪を嫌って南伊豆の森の中に居を移し、姉と共に余生をいつくしんでいたが、88歳で天寿を全うした。この小文を、母の冥福を祈り、そして、家族、師、多くの友人に感謝をこめて捧げたいと思う。
2000年夏
島田晴雄