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2007年 シャネル個展

HARUO SHIMADA painting exhibition | a la recherche du temps perdu 失われた時を求めて 失われた時を求めて 島田晴雄

Ⅰ.なぜいま絵なのか

 私の絵の個展に、ようこそいらして下さいました。

 皆様は、私が、なぜ今、個展を開くのか、しかも、銀座のシャネルの本店でこのような展覧会を開くのか、不思議に思われるかもしれません。

 今回のこのイベントには、私の強い思い、敢えていえば人生を賭けた思いが籠められています。

 私は、今から55年以上も昔、真剣に絵を描いていた時代がありました。後にニューヨークで大活躍された岡田謙三画伯に師事していたのです。私は当時、「豆画伯」として注目され、アメリカのグラフ雑誌「LIFE」に紹介されたこともありました。しかし、岡田謙三先生が渡米されてから私はやがて絵筆をとらなくなりました。

 その後、経済学者の道に進み、大学教授として、また政府の政策顧問として仕事をするうち半世紀が経ちました。その間、たまに絵を描くこともありましたが、数年前に、政府の仕事の関係で、シャネル株式会社の社長Richard Collasse氏と知り合ってすっかり意気投合し、仕事とは全く関係なく、Richardは小説を、私は絵を描くことをお互いに約束しました。

 絵を描くために、私は、伊豆の海岸にアトリエを建て、再び、真剣に描き始めました。半世紀以上もほとんど描いていなかったので、それは全く、ゼロからの再出発でした。思うように描けない、あるいはそもそも何を表現したらよいのかも判らない試行錯誤の日々がつづきました。それでも、それはエキサイティングな時間でした。自分を絵画空間に投げ込むとどのような表現になるのか、興味津々でした。まだ見ぬ恋人に遭遇する期待感のような興奮がありました。人生で、もういちど自分を発見する旅に出るような昂揚感でした。そしてやがて少しずつ、自分らしい絵を描けるような気持ちになってきました。

 そうした作品がいくつか溜まりましたので、まだ、はなはだ稚拙で不充分ではありますが、ここで思い切って、皆様に観て戴こうと個展を開かせて戴いた次第です。

 幼少の頃の想いに立ち戻り、これからの半生にむけてもうひとつの世界に踏み込んでみたい。そんな気持ちで一杯です。そんな思いをこめた私のささやかな作品をご覧戴ければ幸いです。

Ⅱ.幼少の時代に遡る

 私はいつ頃から絵を描くようになったのか、正確には判りませんが、もの心がつく頃から、絵が好きで、かなり一所懸命に絵を描いていた記憶があります。

 空が明るくなりはじめる早朝の庭の風景、家で飼っていた山羊や鶏の表情、父に連れられて出かけた雨に濡れた夜のバス通りの情景など、今でもその印象を鮮明に思い出しますが、それらを気がつくとワラ半紙や時には新聞紙などにクレヨンで懸命に描いていました。

 私には二人の兄がおり、兄達が習っていた絵の先生の教室についていったこともあります。その先生は生徒の絵が出来あがるといろいろ講評をするだけでなく、生徒の絵に筆を入れて「ホラ、良くなったろう」と指導されました。私はそれを見ていて、ちっとも良くなったように思えないし、子供心に不愉快な気持ちになってやめてしまいました。

 そんな頃、母が、近くに偉い絵描きさんが居るらしいと知人から聞き、ある日、母は私をともなってその先生のアトリエを訪ねました。私は身体が小さく病気がちだったので、母は何か少しでも自信を持たせたいと、真剣だったのでしょう。その先生が岡田謙三画伯でした。

 岡田先生は立派な口髭をたくわえたイタリーの俳優のような偉丈夫でしたが、玄関先で「ここは子供の来るところではない」といった意味のことを言っておられたことを覚えています。その後、おそらく母が懸命に頼んだのでしょう。私は岡田先生の弟子としてアトリエに通えることになりました。

 真新しい油絵具箱と筆を母の手作りのズックの鞄に入れてアトリエを訪ねました。アトリエにはゆとりのありそうな中年の婦人や男性のお弟子さんが数人おられ、皆、親切でやさしくしてくれました。絵のモチーフは静物やヌードでした。若い女の人が服を脱いで立ち、寒い日など、ストーブを盛んに炊いていたのを覚えています。私は大人のお弟子さん達にまじってただただ真剣にモチーフを描いていました。

 岡田先生は、一心に描いている私の後ろに立ち、黙って見つめておられました。それが判るのも、無言の先生から、私は何か強いインパクトを感じ、その都度、身体が熱くなるような高揚感を覚えたからです。先生は、絵の講評はされましたが、人の絵に、筆を入れるようなことは一度もされませんでした。

 岡田先生ご夫妻はとても素晴らしい方々で、先生がパイプをくゆらせながら大きなキャンバスに向かわれている姿に私は憧れを感じていました。また、奥様は子供心にも魅力的な美人で、お二人は私を実の子供のように可愛がってくださいました。

 岡田先生のアトリエに通う傍ら、私は、親に連れられて、その当時、盛んだった子供の写生大会に熱心に参加し、多くの賞を獲得しました。子供の絵の世界では注目されたらしくいろいろな雑誌の取材も受けました。ある日、アメリカのグラフ雑誌「LIFE」の記者が取材に訪ねてきました。記者は、家でも、また岡田先生のアトリエでも取材をし、それが1950年1月23日付けの「LIFE」アメリカ国内版に掲載されたようです。

 取材を受けた頃、私は、6才になったばかりで、それから年数も経ち、やがてもらった掲載誌もぼろぼろになってしまいました。後に学者になってから、学会仲間のロバート・コール教授にLIFE誌の取材のことを話したところ、しばらくして彼がワシントンDCの古書店で見つけたとして、ほぼ完全な雑誌を送ってきてくれました。その号では、中国の建国が7ページほどの特集記事になっており、それから何ページか後に、私の記事が1ページほど載っていました。

 それからほどなく岡田先生ご夫妻は、新天地アメリカでの活躍を期して渡米されることになりました。私は母に連れられて先生ご夫妻を横浜の埠頭までお見送りに行きました。当時、太平洋航路を担っていたプレジデントラインのウイルソン号の手すりから先生は身を乗り出して七色のテープを振っておられましたが、その白い船体が水平線上の白い点になって消えるまで、私は立ちつくしていました。

 先生は当時の戦後教育や日教組の影響を懸念しておられ、両親に、私を普通の小学校の教育ではなく、特別の絵の教育をすることを薦められたようです。そのために親しい女流画家も紹介されたようですが、結局、私は近くの公立小学校に通うことになりました。

 私は依然として小さく病気がちの子供でしたが、絵の事は教育関係者の間で知られていたらしく、いつも特別扱いを受けていました。他の生徒が粗末なワラ半紙なのに、私だけには上質のケント紙が与えられ、学芸会や運動会では私は皆の前で大きな紙に写生をし、それができあがると全校生徒に提示されました。私はそうしたことのすべてに違和感を覚えはじめ、それはやがて受け入れ難い疑問になっていきました。

 そんな頃、私に鮮烈なインパクトを与える場面に遭遇しました。母が三越かどこかのデパートで開催されたアルタミラの洞窟の写真展に連れていってくれた時のことです。古代人が洞窟に描いたバッファローの絵が並んでいたのですが、いくつかのバッファローの絵につづいて、ただ洞窟に傷をつけただけのような線の写真がありました。その前に立ったとき、私はなぜか引き込まれるような思いがし、しばらくその場を離れることができませんでした。

 古代人にとって、バッファローはかけがえのない食糧でしたから、彼らはおそらく感謝の念をこめて洞窟の壁にバッファローを描いたのでしょう。しかし、中には不器用な人もいて描けないながらも真剣に思いを表そうとしたに違いありません。その思いが伝わってくるような気がしたのです。それを見ているうちに、私の中で次ぎのような考えが明確になってきました。絵はさまざまな芸術のなかでも最もプリミティブなものだ。なぜなら音楽や書道のように特別な訓練も要らないし、画材も全く自由で、壁に泥を塗りつけても絵は描ける。上手でも下手でも良い。思いを籠めることが重要なのだ。極言すれば、とくに何かを描かなくてもよい。生きていることそのものが芸術(art)なのではないか。こんな考えを確信したのは、たしか9才の時でした。

 中学に進む年頃になって、私は、受験をすることになりました。目標は慶應義塾の中学校です。慶應の中学は人気の高い名門校で、とくに普通部は20倍以上の難関で知られていました。両親は、私が慶應に入れば、大学まで入学試験がないので、絵を描くことができると期待したようでした。私はとにかく懸命に勉強し、トップレベルの成績で普通部に合格したようです。トップレベルであったことがわかったのは、最初の学期だけ学校側が指名する主席クラス委員になったからです。

 絵を描ける環境と両親が期待したこの中学で、残念ながら、私と絵を決定的に引き離す事件が起きてしまいました。普通部でも絵の先生が私を特別扱いしてくれました。画材だけでなく、点数も他の学生が満点でも100点なのに、私には200点とか400点とかをくれたのです。ところが、私は上述のように、生きていることそのものが絵(art)だという考えになっていたので、人生に点数をつけることができないのとおなじで、絵に点数をつけること自体冒涜ではないかと思っていました。

 そんなある日、先生が、クラスで私の絵を掲げて「この絵はもらっていくよ」と言われました。先生は明らかに、新しく出来る美術室に飾ってあげようという好意でそう言われたにちがいないのですが、私には、あたかも自分の分身である子供が突然拉致されたような気がして承伏できなかったのです。そこで、職員室に先生を訪ねて絵を返却してくれるよう要求しました。私は先生があまりのことで口が聞けないほど怒られているのを感じましたが、それでも要求をつづけてようやく絵を返してもらいました。その事件があってから私もひどく落胆し、絵を描く意欲を急速にうしなったように思います。

 その時の普通部の部長先生は、当時、高名な法哲学者として、また労働法の最高権威として知られた峯村光郎先生でした。それから数十年後、私が助教授になった頃、峯村先生の研究会に参加した私を、先生はとくに呼び止められて、当時の話をしてくださいました。普通部の職員会議は意見が二分されて、怪しからん学生は退学処分に、という声も高かった中で、峯村先生が案件を引き取ってくださったこと、また、私の母が何度も学校に呼び出されて注意を受けたこと、を私ははじめて知りました。その事を母は、とうとう亡くなるまで、私には一言も言いませんでした。自分の信念を主張する息子を最後まで信頼してくれていたのでしょう。

 いずれにせよ、その事件があってから私はほとんど絵を描かなくなりました。不遜な言い方ですが、13才で筆を折ったのでした。

Ⅲ.絵の再開

 それから約半世紀が経ちました。岡田先生のアトリエに通っていた頃から数えると56年も経過したことになります。

 中学校では、身体が小さく弱かった劣等感を克服しようとしてスポーツに励みました。小さくても大きな相手を投げ飛ばすことのできる背負い投げに魅せられて柔道部に入りました。寒稽古で大風邪を惹いて柔道部をやめ、ジョギングに熱中しました。ヘルシンキ・オリンピックで人間機関車と呼ばれたザトペックの白熱の走りぶりに感動したからです。

 慶應高校に進むと、ボート部にコックスとしてスカウトされました。コックスは小柄で軽い方が良いのです。大柄な漕手達と同じ練習をするので、運動能力も高まり、筋肉標本のような身体になりました。日本漕艇協会が、1964年の東京オリンピックに向けて全国代表クルーを5年前から編成することになり、私はそのコックス候補に選ばれました。1年間に100日以上も合宿し、激しい練習を重ねました。雨でも風でも冷たい板に座り続けることが影響したのか、痔を悪くし、残念ながら艇を下りました。数年後のオリンピックにはサブ・コックスだった私の友人が出場しました。高校を卒業する前に、癌との闘病生活をつづけていた父が他界しました。大学では学費の大半をアルバイトで稼がなくてはならなくなりました。

 大学では経済学部に進み、英語会に入会しました。ところが外部から入学試験の難関を突破して入ってきた仲間達にくらべ、学力の差が大きく挫折しそうになりました。そこで一旦、英語会をやめ、独自の方法で集中的に英語を練習し、スピーチコンテストで帰国子女を抑えて入賞し、晴れて復帰を果たしました。その後は、英語会の討論部門のリーダーとして全国大会などでも活躍し、東京オリンピックでは、全国から選ばれた2000人の学生通訳のトップ10人にはいり、最上級の団長付き通訳として多くの会場に出入りし、世界のアスリート達のお世話をしながらまさに青春を謳歌した数ヶ月でした。

 卒業時には、空前の成績で表彰学生に選ばれました。企業への就職も考えましたが、指導教授の川田寿先生に大学院に進学しないかと強く薦められました。知識がない中でキャリアの選択を真剣に悩みました。何らかの形で世界と人類に貢献したいという思いがありましたが、教育は一人でやるよりも、多くの人材を育てるという意味で、大きな意義のある仕事と考え、学者の道に進むことを決意しました。今でもこれは正しい選択だったと思っています。成績が良かったので、潤沢な奨学金をもらう特別研究生に選ばれ、労働経済学と労使関係を専攻することになりました。また、修士課程終了時には、助手選考に合格して、慶應大学の教員として長期雇用の可能性を手にしました。

 当時の日本は、欧米先進国から技術を導入し、懸命に働いて輸出所得を稼ぐという形で高度成長を実現しつつあった頃で、先進国とくにアメリカから多くを学んでいました。私も指導教授の薦めで、アメリカ留学を志すことになりました。第二次大戦後のアメリカが世界の復興のために提供したフルブライト奨学金に応募し、経済の分野ではトップの推薦を得、労働経済・労使関係の領域で有名なコーネル大学に留学することになりました。

 留学すれば数年は日本に帰らない可能性が高いので、留学の前に結婚をすることになりました。相手は中澤君子。私の中学時代からの親しい友人、中澤彦七の妹です。中澤家は三百年近くつづいた酒類販売の老舗で、君子ははじめて中澤姓以外の家に嫁いだとのこと。君子を連れてコーネル大学に留学しました。コーネル大学は、ニューヨーク州北部の氷山跡にできたカユガ湖のほとりにある全米でも屈指の美しいキャンパスで知られた名門大学です。溢れるような木々の緑、広い芝生にリスが遊ぶ豊かな環境の中で、君子と私は新婚生活を始めました。その冬、ニューヨーク州は豪雪に見舞われましたが、君子と私は岡田先生をニューヨーク市の下町、グリーニッチビレジに訪ねました。先生は心臓疾患を抱えながら仕事をされていましたが、奥様と暖かく迎えてくださり、積もる話に花が咲きました。先生は私が経済学者になったことを知り「銀行家と経済学者は大嫌いだ」と言われました。実際、先生がアメリカに渡ってから、「島田君は今頃、良い絵描きになっているだろうね」と奥様と時々話しをしておられたと後で聞きました。私達は春になってこんどはニューヨーク州郊外の農村レンセラービルにある大きな館に先生を訪ねました。いくつかの建物の中に納屋を改造した大きなアトリエもあり、先生ご夫妻をしたっていつも若い芸術家が集まっていました。先生の制作作業は奥様によれば「三日に一度、精神的な下痢をする」ような厳しい精神活動であったとも聞きました。

 コーネル大学で希望した指導教授が政府の要職につくためワシントンDCに行かれることが判ったため、私は、川田寿先生の親友、Solomon Levine教授のおられる中西部のウィスコンシン大学に移籍することになりました。大学はウィスコンシン州の州都マディソンにあり、私の専攻した労使関係と労働経済の領域では全米でも最も伝統があり、リベラルで、優れた教育研究環境に恵まれたところです。

 移籍して間もなく、長女の晴子が生まれました。大学院生達のために立派な住居が整備されており、晴子は、世界各国の子供たちと毎日、リスや野生の鹿も戯れる広大な芝生を駆け回ってのびのびと育ちました。 私はここで、多くのアメリカや各国の若い研究者達と親しくなりました。その一人が後に世界労使関係学会会長になったThomas A.Kochan氏でした。ウィスコンシン大学には3年半滞在し、博士号(Ph.D)を取得しました。

 慶應義塾大学に戻り、助教授に昇格しました。当時の日本は、石油危機の最中で、世の中が騒然としていました。アラブ諸国から輸入する石油の価格が4倍になり、世界的にインフレが昂進し、経済が低迷しました。日本は石油の大半をアラブ諸国に依存しているために、その衝撃はとくに大きく、年率30%にも及ぶインフレをどうコントロールするかが最大の課題となり、インフレをどこまで賃上げに転嫁するかの労使交渉が焦点になりました。日本は労・使と国民の三者がそれぞれインフレの負担を分かち合う分配を進め、インフレを鎮静してめざましい経済回復を実現したため、世界の注目を集めたのです。

 労使関係と労働経済学を専攻する私にとってこの過程は絶好の研究テーマでした。私は現場の経営者や労働関係者と密接な交流を深めながら、労働と経済の関係を総合的に研究し、日本経済の回復力の根底にある独特な産業システムについて多くの論文を書き、国の内外で精力的に学会活動を展開しました。また、大学では島田研究会(ゼミ)を開設し、それ以降、30年にわたって600人以上の優秀な卒業生を輩出することになりました。

 日本経済の回復が端緒についた頃、次女のまどかが生まれました。そして私は教授に昇格し、さらに忙しい毎日がつづきました。大学での研究と教育のほかに、労使関係の助言や政府の政策にかかわる仕事もふえ、ストレスも高まりました。そんな時に、MIT(マサチューセッツ工科大学)のKochan教授から、1年間、訪問教授としてMITで静かな研究生活をしないかという誘いを受けました。あまりに多忙な生活をしていたために、この誘いは魅力的で、家族とも相談し、受けることにしました。大学から研究休暇をもらい、MITの後は、フランスのESSEC(経済経営高等学院)に交換教授として一学期だけ滞在することにしました。MITには当初の3ヶ月間は単身赴任することになり、到着後、数日間はKochan教授の自宅に泊めてもらいました。Kochan氏は私が日本であまりに忙殺されていたことを良く知っており、アメリカでは私の静かな研究環境を守ると言ってくれ、実際、そのとおりにしてくれました。手帳を開くと、その先、1年間のカレンダーが真っ白に空いており、私はまるで雲の上に乗っているような自由な開放感を覚え、毎日どれほど楽しく過ごそうかと思わず叫び出したいほど嬉しくなりました。Kochan氏の友情には心から感謝です。

 私はボストン郊外の静かな住宅地、ベルモントに家を借り、家族が来るまでの間、毎日、チャールズリバー沿いの道をMITと往復していました。時は春、一斉に花と木々の若芽が吹き出すような生命力に満ちた季節、午後になると人々はチャールズリバーでヨットやボートに興じたり、岸の広場で様々なゲームを楽しんだり、あたかもアンリ・ルソーの絵のような情景が現れます。岸辺の道を往復しながら、私はそうした風景を無性に描きたくなり、ハーバードスクエアの画材店で、透明水彩の道具を一式求めました。

 水彩を描くのは私にとってはじめての経験でした。透明水彩は、薄い色を積み重ねて描きますが、重ねた色が最後まで残るので、完成した姿を想像しながら逆算して下の色から塗っていく必要があります。それがなかなか思うように行かず、最初のうちは何枚も描いては破り捨てました。しかし何枚か描くうちに次第に慣れてきました。水に魅せられてもっぱらチャールズリバーやボストン周辺の漁港や水辺を描きました。ある時、水面がキラキラ輝き、その下が透けて見えるような水を描いていましたが、私の手が無意識に色を選んで重ねていきはじめました。私自身が輝く水面と対話しつつ溶け込んでいくような思いでした。君子と次女のまどかは学校の事情で日本に帰国したので、こんな時、いつも長女の晴子が熱中している私を我慢強く見守っていてくれました。

 ボストンに9ヶ月滞在した後、今度は晴子と二人で、フランスで3ヶ月過ごすことになりました。パリ郊外にあるESSEC(Ecole Suprier Science Economique et Commercial- 経済経営高等学院)で春学期を教えることになったからです。パリの大学村のアパートを借り、時間を見つけては、パリの周辺や地方あるいはスペイン、イタリーなど旅行先で水彩画を描きました。ある時、ベルサイユ宮殿を訪ねましたが、雨があがって霧にかわり柔らかな陽射しが射しはじめた早春の裏庭で、マリーアントワネットが愛したという農家風の小劇場のたたずまいに惹かれ、思わず絵筆をとって小さな水彩画を描きました。忘れがたい思い出のひとつです。

 丸一年の海外生活を終え、日本に帰ると、また以前にもまして多忙な日々が始まりました。大学での研究でも充分にフルタイムの活動ですが、教育は通常の講義のほかにゼミと体育会ボート部長の仕事があり、大学の外では、政府の政策関連の仕事に次第に深くかかわるようになりました。政府税制調査会、財政制度等審議会、産業構造審議会など多くの審議会に加えて、対日投資委員会の部会長、そして小泉政権が発足してからは、内閣府特命顧問として総理大臣に政策提案をする役割も加わりました。その上に、富士通総研経済研究所の理事長やいくつかの会社の社外役員もすることになり、さらに私の持論である生活産業の発展促進のために有力企業のコンソーシアムを組織したり、また、活力と志のあるオーナー型経営者の勉強会「島田塾」をはじめるなど私の生活は多忙を極め、絵の世界とはまた縁が遠くなりました。そんな時、Richard Collasse氏との出会いが私の生き方を変えるキッカケになったのです。

 Collasse氏と知り合ったきっかけは政府の対日投資会議でした。日本の政府は海外からの対日投資に門戸を開くために総理大臣を議長とする対日投資会議を10年前から設置し、制度や政策の改革を進めてきました。私はその専門部会長として内外の専門家の作業委員会を運営してきましたが、在日欧州ビジネス協会(European Business Committee)の会長としてCollasse シャネル株式会社社長が専門委員として参加されたからです。

 ある時、Collasse氏と私は、欧州での対日投資キャンペーンのために一緒にフランス、ベルギー、ルクセンブルグを旅行したことがありました。家内とともにボルドーのシャネルのシャトーに泊めて戴いたり、大変、楽しく有意義な旅でしたが、その時に、私が少年の頃、真剣に絵を描いていたことが話題となり、Collasse氏が、今度新築するシャネルジャパンの銀座の本店で個展をしてはどうかと強く勧めてくれたのです。

 彼の勧めは本気だったので、私もこれを真剣に受け止め、半世紀ぶりに絵を本格的に描いてみようと決心したのでした。そのために、伊豆の海辺に土地を買って計画していた別荘をアトリエに再設計することにしました。

Ⅳ.自分再発見への旅

  絵は半世紀以上も本格的に描いていなかったので、本気で描こうとすると、まず、どのような絵を描こうか迷いました。これまで風景など具象的な絵はときどき描いていましたが、これから本格的に描くとすると、自分自身をもっと直接、表現できる絵が良いと考え、写実ではなく、心に浮かぶイメージを現わす、いわば「心象風景」を描いてみようと思い立ちました。

 こんな話をある高名な医師にしたところ、先生は抽象画は脳の活性化になる、と励ましてくださいました。心の風景を描こうと思ったのは良いのですが、実際に、心に浮かぶ風景があるかというとそれをイメージするのはそう簡単ではありません。画想はそうたやすく生まれてきません。そこで、私は小さなスケッチブックをつねに携行して、何か脳裏に浮いてきたら描きとめることにしました。また、半世紀以上も本格的に絵を描いていないので、事実上、絵については何も知らないのと同じ、画材も何をどのように使ったら良いかも判らない状態でした。

 そんな時、幸運にも武蔵野美術大学教授の柳澤紀子先生と知り合うことができたのでした。それは家内とともにGraham Fry英国大使のレセプションに招かれた晩のことでした。家内がお客様の中におられた柳澤先生に私の絵のことを話したらしく、すっかりこれから描く絵のことで話題が盛り上がりましたが、先生は、私にいろいろ手ほどきしてくださることになりました。ちなみに、先生の夫君は私が以前から存じ上げている自由民主党の柳澤伯夫議員でした。

 柳澤先生とはそれから何回かお会いして相談をしましたが、ある時、戦後、世界を風靡した前衛書家の鬼才、井上有一氏の話になり、私が井上のアートに感銘を受けたことを話すと先生は以前から深く共感しているとのことですっかり意気投合しました。先生はいきつけの伊東屋で画材の手ほどきをしてくださり、また私が興味をもちそうな抽象画家の画集も紹介してくださり、さらに何人かのアートディレクターを紹介してくださるなど熱心に支援してくださいました。とにかく描いてみることだ、と勧めてくださり、その後も節目節目で貴重なアドバイスをしてくださいました。

 抽象画に挑むのはまったくはじめての経験だったので、まず、小さなスケッチブックに脳裏に浮かんだ画想を描きつけ、それをやや大きなスケッチブックに水彩で表現し、それを10号ないし20号くらいのキャンバスに油彩で描いてみる、その上ではじめて50号以上の大きなキャンバスに本格的に描く、という4段階の作業になりました。また油彩は乾くまでかなりの時間がかかることがわかりました。とくに溶剤にツヤのあるリンシードオイルなどを使うとしっかり乾くまでに1〜2ヶ月はかかるので、一枚の絵が完成するのに半年も一年もかかるおそれがあります。2年後の個展に間にあうのか、という時間制約も課題でした。

 また画材も画法にも限りない深さがあることがだんだん判ってきました。油彩の絵の具を買い足していくとどれも欲しくなり、結局、200色くらいのサンプルから選ぶことになりました。また20年ほど前にアクリル絵の具が開発されたようですが、半世紀前には存在していなかった新しい絵の具で、私は初めて勉強することになりました。アクリルは水溶性で、水彩のような筆致も出せますが、ペンキのように厚塗りも可能で、しかも乾く時間が短いのが便利です。クリームや砂や石膏などの混合材やその他多くの仕上げ材との相性も良く、いろいろな画法が可能ですが、数百年の歴史をもつ油彩絵の具の色調の深みには一歩譲るところがあります。

 プロの画家はこうした画材や画法のすべてを熟知して、それを駆使しつつ自分を表現しているのでしょう。ゴルフでもプロとアマの差は歴然としており、用具も地形も芝も天候状態の影響も熟知した上で、目標に正確に打ち込むプロと、地形の読みも不十分で、しかも狙ったところにしっかりと打てる自信もない初心者とは、雲泥の相違があります。しかし、私は約束した個展は開かねばならず、絵への想いだけは負けないとの思いで頑張ることにしました。

 想いだけを頼りに絵に挑戦する心境は、表現が必ずしも適切ではないかも知れませんが、まだ見ぬ恋人に遭遇するかのような期待感と緊張感があります。私は経済学や政策の世界では何十年も仕事をして来ているので、経済政策提言などの知的空間なら島田流の自己表現もあり島田流の自信もありますが、絵画空間で島田晴雄を表現するとどのような形になるのかは全く未知の世界です。まだ知らぬ世界に踏み込む期待と緊張の中で、自分を模索する毎日がつづきました。

 そうした新しい精神的な作業は、自らを完全に解放し、右脳が喜んで動き出すような環境で集中的に行った方がよいと考え、絵はもっぱら伊豆のアトリエで描くことにしました。伊豆のアトリエは、伊東市の川奈ホテルゴルフコースの南の断崖の上にあります。70メートルほど下の海岸には終日波が打ち付け潮騒が心地よく響きます。周囲は樹林に囲まれ、視野には電線もなく文明の形跡がありません。正面は大島で天候によって刻々とその表情が変ります。二人の娘がこのアトリエ別荘にCasa del Sol(太陽の家)と名をつけました。ほとんど毎週末、横浜の自宅から車を運転してアトリエに通うことになりました。金曜の夜到着して日曜の夜帰宅するのです。

 絵を描いていくうちに自分自身がその中で変化していくことが判りました。当初、抽象画を描こうと思って画想を練りましたが、自然な曲線が描けません。なぜそんな線やデザインをするのか無意識のうちに自分で理屈を求めるからでしょう。孫の悠太の無心な筆致を見て感心する毎日でした。そのうち、海や山、そして春夏秋冬の木々など自然のパワーを感じ、その力を絵に生かしたいと思うようになりました。さらに、自然やさまざまな刺激のエネルギーをもっと率直に受け止めて自分なりに何かを表現しようと思い始めました。少しずつ、少しずつ、もっと自分を開放し、もっと自由な自分を発見したいという思い、絵画空間の中に新しい自分を見つけ出そうとする模索そのものを楽しみたいという心境になってきました。それが私の人生で気がつかなかったもう一人の自分を発見する旅なのではないか、私の人生で気がつかずに失われていた貴重な時を発見する試みなのではないか、と思うようになりました。絵という営みを通じてこれまで知らなかった新しい人生に誘われる高揚感を感じています。

 この個展は私自身のそうした新しい人生への第一歩といえます。それを支えてくださった多くの方々の御厚情に心から感謝を捧げたいと思います。
島田晴雄
*この個展のテーマに「失われた時を求めて」(マルセル・プルースト)を引用させて戴いたのは、シャネル株式会社 代表取締役社長 Richard Collasse氏の奨めによるものです。