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島田村塾 活動記録 2015年7月 ウズベキスタン訪問

ウズベキスタン研修訪問のための知的準備
(島田村塾 世界探訪project 2015)

島田晴雄 (島田村塾塾長)

Ⅰ. はじめに

「島田村塾」では毎年、世界でとりわけ興味のもてる地域や国を訪問し、現地のさまざまな場所や機関などを訪ね、さまざまな人々と交流かつ議論をすることをつうじて、現地や人々への理解を深め、世界の総合的な理解の一助とすることとしています。訪問対象は、いろいろな意味で興味があるが通常あまり訪問する機会がない国や地域であり、今年はそうした興味から意義が深いと私達が考えるウズベキスタン共和国を訪問したい思います。

この「知的準備」と題された資料は、村塾の諸君がウズベキスタンを訪問するにあたって是非この資料を熟読してウズベキスタンについての基礎知識をもってもらいたいという思いから、私がさまざまな資料を渉猟してとりまとめたものです。

ただし、“とりまとめた”というよりは、この段階では“寄せ集めた”という方が正確でしょう。
ウズベキスタンの歴史、政治、経済などを鳥瞰できる総合的な研究書や文献がとぼしいため、さまざまな情報源から参考になりそうなものを寄せ集めたいわば資料集のような形でまとめてあります。多様な情報源なので、事実や数字ひとつをとっても一致しなかったり齟齬があったりしますが、このペーパーではそれらはそのまま記載してあります。それでも塾長の私がこれだけの情報をできるだけ体系的にまとめたのですから、塾生の諸君は自分なりに読み込んで消化し評価し判断してください。

このペーパーは以下、次のような流れで構成したいと思います。まず、次章Ⅱは、先日、ウズベキスタン当局に、島田村塾の訪問の趣旨を訪問企画書として提出した際の文章をほぼそのまま載せてあります。その次の第Ⅲ章は、このペーパーでは唯一、私なりにウズベキスタンの鳥瞰図を描いてみたものです。いくつかの特徴や留意点10ヶ条にまとめてあります。この部分は是非、熟読してください。

第Ⅳ章から第Ⅷ章までは、ウズベキスタンの歴史、政治、経済、外交関係、日本との関係などを理解するうえで有益な情報をたばねてあります。これらは私の書き下ろしでなく、多様な資料を集めたものなので、お互いに齟齬や矛盾も見受けられますが、なぜそうなっているのかを考えながら読む一層、自分の理解が立体的になるでしょう。5月21のWSはマンスール氏にも出席してもらってウズベキスタン研究に費やしますが、それまでにはこのペーパーを熟読しておいてください。
このペーパーの資料の多くはWikipediaに依存していますが、Wikipediaはウズベキスタンを西欧風の価値観で判断している傾向が強く、現在のカリモフ大統領の政治手法についてかなり批判的です。ウズベキスタンの人々から見ると許容しがたい部分が多いと思われますので、ウズベキスタンの人々に語るときにはそのあたりに気をつけてください。

Ⅱ. ウズベキスタン視察訪問

1. なぜウズベキスタンなのか?

ウズベキスタンは中央アジアの真ん中に位置する中央アジアを代表する大国ですが、私達にとっては欧米諸国や東南アジア諸国にくらべればやや馴染みがうすく普段はあまり訪ねる機会がありません。しかし、ウズベキスタンは以下の観点から極めて興味のある国です。

(1)地政学的観点

ウズベキスタンは1990年代初頭の旧ソ連解体を契機に独立しましたが、現代の独立国としてはまだ歴史が浅く若い国である。ウズベキスタンは旧ソ連体制では、ソ連邦を構成する主要な民族共和国の一角でした。独立を機に、ウズベキスタンは経済発展水準の高い欧米諸国との経済・政治交流をめざしましたが、同時に、ロシアとの関係も重要でウズベキスタンを取り囲む中央アジア諸国とともに、アメリカ、欧州、ロシアなど世界の政治力学の中で微妙な舵取りによって安定と発展をめざしており、地政学的に極めて興味ある対象です。

(2)経済的観点

ウズベキスタンには、レアアース、ウラン、金、石油、などの天然資源が豊富にあり、近年、世界的な注目を浴びていますが、約3000万人という中央アジア最大の人口の所得水準は低く、産業構造も農業が主体、とりわけ、旧ソ連時代のモノカルチャー戦略に強化された綿花の生産に依存するところが多い。綿花はその栽培に水が必要ですが、乾燥沙漠地帯の多いウズベキスタンには本来適しない産業であり、これから本格的な経済発展をめざして、工業化や付加価値の高い新産業の創出が急務です。近年、ウズベキスタン経済の成長率は高まっていますが、ウズベキスタンがさまざまな困難を克服してその資源や人材を適切に活用して新しい本格的な経済発展を実現できるか、政策的にも研究上の関心からも多いに興味のあるところです。

(3)歴史的・文化的観点

ウズベキスタンは19世紀後半から帝政ロシアの強い影響下に入り、1920年代から約80年間、ソ連邦を構成する主要な民族共和国のひとつとなり、ゴルバチョフによるソ連解体後、独立国として歩んできていますが、ウズベキスタンの地域と民族の歴史ははるかに長く、3000年有余にわたって独特な文明を育んできました。その間、ウズベキスタンは隣接したペルシャ、オスマントルコ、モンゴル、中国などの覇権国家の強い影響を受けて独自の文化を醸成してきました。ウズベキスタンはその地理的な位置から、古代・中世の「シルクロード」の要衝でもありました。世界遺産にも認定されているサマルカンドなどにはそうした歴史的遺産が多く遺されています。ウズベキスタンは世界の歴史、文化を研究する上でも重要な地域です。

(4)日本との関係

ウズベキスタンと日本との交流も近年ますます盛んになりはじめています。ウズベキスタンがめざす近代産業の促進には日本としても貢献できるところが多く、また地下資源が豊富で将来への大きな可能性があるウズベキスタンには日本の政治家もビジネスも強い関心を持ち始めています。島田村塾の若手事業家のようなこれから世界での活躍が期待される人々にとって、さまざまな可能性を秘めたウズベキスタンを学び、交流を深めることは彼らの成長にとってもまたウズベキスタンの発展のためにも多いに意義があると考えます。

2. 訪問の日程
(1)日程

 7/17(金)〜22(水)

(2)行程

 1)7月17〜19日:週末を利用して主要都市や観光スポットを見学。
 2)7月20日〜21日:主としてタシケントで政府機関、研究機関、企業、大学など訪問

(3)フライト

 往路:7/17(金)10:05成田→15:35タシケント
 復路:7/22(水)8:00タシケント→19:50成田

3. 希望訪問先(暫定候補)
(1)政府機関や民間組織など
  • ウズベキスタン共和国対外経済関係・投資・貿易省
  • ウズベキスタン復興開発基金、
  • 通信技術国家委員会
  • 銀行・金融アカデミー
  • 大学等
  • 在ウズベキスタン日本大使館
(2)観光・見学など
  • タシケント(シルクロードの真珠)
  • サマルカンド(世界遺産の古代都市)
  • ブハラ市など
(3)ビジネスマンなどとの交流

Ⅲ. ウズベキスタン鳥瞰
(Quick Overview of Uzbekistan)

1. 中央アジアの大国

ウズベキスタンは中央アジアを呼ばれる地域の真ん中にある。中央アジアを構成する5ヶ国(図1参照:ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタン)の中では最も人口が多く(3000万人以上)、5ヶ国の総人口のほぼ半分を占める比重がある。

2. 中央アジアとシルクロード

世界の文明史をひもといてみると、中央アジアは中国に代表される東アジアと西欧を結ぶ交通路の中央に位置しており、人類の文明の発展をささえて来た地域であるとも言える。古代から中世にかけてこの交通路は“silk road”として知られていた。東アジアで生産される絹を西欧と取引する要路だった。この要路のほぼ中心地に、ウズベキスタンが世界遺産(図2参照)として誇るサマルカンドやブハラなどの古代都市があった。シルクロードの遺跡は、ウズベキスタンの“売り”になっている。

ちなみに近年、現代のシルクロードが世界の耳目を集めている。中国からドイツなど西欧まで全長数万キロにおよぶ鉄道を敷設しようというのだ。単線の大部分はすでに完成し中国と欧州の貿易量が飛躍的に高まっているが、複線で効率的な大陸横断鉄道ができれば、世界の物流地図は革命的に変化し世界経済の風景が変わることが予想される。鉄道通過域の中央に位置するウズベキスタンはその意味でも注目を集めることになるだろう。

3. 多様な民族と文化のmelting pot

東西の交易を人流の中心地であったということは、古代、中世、近世にかけて多くの民族や国々、そして帝国などの競合、摩擦、闘い、征服の舞台にならざるを得なかったということでもある。実際、現在のウズベキスタンは、ウズベク人が人口の8割を占めるとはいえ、ロシア、タジク、カザフ人などが混生している。歴史をひもといてみると、この地域の数千年の文明史のなかで現在のウズベキスタンの土地は多くの覇者が征服を繰り返してきており、彼らの覇権を今では文化的遺産から窺う事ができる。

4. ロシアの支配

19世紀中頃からこの地域を支配したのはロシア帝国であった。ロシア帝政は1917年のボルシェヴィキ革命で倒れたが、帝政を倒して共産主義を掲げたソ連は、この地域をロシア帝政以上の厳格というより過酷な支配体制に組み入れた。実際、ソ連はロシアの周辺に14の民族共和国なるいうなれば国家の“奴隷制”を敷き、過酷な支配による搾取をつづけたのである。ウズベキスタンはじめ中央アジア5ヶ国はいずれもその体制下に組み込まれた。

5. ソ連が強制したモノカルチャー経済

ソ連は支配する14の民族共和国やさらにその周辺の“衛星諸国”にも、それぞれ指定する産業に特化するよう強制した。いうなればモノカルチャー経済の強制である。ウズベキスタンは綿花栽培が義務づけられた。ウズベキスタンは国土の大部分が乾燥した沙漠地帯なので、本来、水を大量に必要とする綿花栽培には向かない土地柄だ。ソ連の強制に服さないわけにはいかないので、アラル海の水を汲み上げ続けた結果、アラル海の水量はかつての1/3に縮小し、地質や生態系に深刻な影響が出ているとされる。しかし、正確はデータを当局は発表していないし、専門家の調査もなかなか困難のようだ。

また、このような不自然なモノカルチャーは、工業や農業のバランスのとれた発展を妨げており、その結果、ウズベキスタンは望ましい経済発展を阻害する重大な構造的障碍に直面しているといえる。

6. ソ連支配の政治的意味

ソ連はソ連邦を構成する民族共和国に対して残忍なまでの政治統制と思想統制を強制した。とりわけスターリン時代にはそれが最も深刻化した。スターリンは“テロル”という恐怖政治というより大量殺戮政治で知られている。自分を信奉し服従しない人々は政治家であろうと役人、事業家であろうと庶民、農民であろうと粛清、処刑し、その犠牲者はソ連邦だけで500万人に達したと言われる。

ウズベキスタンでも民族主義を掲げた活動家や政治家は粛清され、抹殺された。ゴルバチョフのソ連解体を機に民族共和国はほぼ一斉に独立をめざして立ち上がった。しかし、情報開示や自由化を謳ったゴルバチョフですら、ソ連をあからさまに批判した指導者は失脚させた。その後、ロシアで専制君主となったプーチンははるかに計画的に残酷に批判者や批判的な政権の粛清と破壊を続けている。近年はウクライナがその犠牲になっているが、その前には、チェチェンもアルメニアもグルジアも犠牲になっている。アゼルバイジャンも独立直後にその悲劇に見舞われた(ナゴルノ―カラバフ事変)。

● 島田村塾ペーパー『アゼルバイジャンの地政学』も是非、参考文献として読んでおいてください。

7. カリモフ大統領

悲劇に見舞われた国々に共通しているのは、ソ連の支配に対して自由、人権、民主化を叫んで民衆が立ち上がる「色の革命」に象徴されるような動きである。アゼルバイジャンは独立直後の悲劇から学んで、その後の親子二代にわたるアリエフ大統領の治世では、情報、言論、思想の緻密な管理のうえできわめて安定した政治体制を確立し、石油生産を主軸に経済発展に全力を注いでいる。

ウズベキスタンでは、国家の独立の際に、ウズベキスタン共産党中央委員会第一書記であったイスラム・カリモフ氏を初代大統領に選出し、ソ連との摩擦を巧みに回避した。カリモフ大統領はその後、憲法改正までして長期政権を維持している。2015年3月には遂に4選を果たし、在位すでに24年を数える。この政治手法には欧米の識者や政治家から批判が集まっている。欧米的な経済、社会、政治的条件が整えば“民主主義的選挙”と社会安定は両立するだろうが、世の中にはそうした条件が整わずに別の戦略を追求している国々も民族も多数存在することを私達は広い多面的な視野で理解する必要があるかもしれない。

8. テロ、抑圧、人権、外交

ウズベキスタンは、その建国以前からの歴史的経緯から周辺民族とのさまざまな紛争の種をかかえており、主な例だけひろっても1989年フェルガナ事件(ウズベク人とトルコ系メフス人との衝突)、1990年のオシュ事件(ウズベク人とキルギス人との衝突)といった民族対立のほか、1999年2月、2004年4月、7月にはタシケント市等で爆発事件発生などにも見舞われている。とくにタシケント市での爆弾事件は、カリモフ大統領の暗殺を企図したものともいわれている。

近年とりわけ大きな問題となったのは、2005年5月に勃発したアンディジャン事件である。
反政府デモが起き、治安部隊が鎮圧の際に一般市民に発砲、数百名の死者が出たとされる事件だ。こうした反政府の大衆運動にカリモフ政権はとくに神経をとがらせている。

それは上述したように、旧ソ連邦を構成した民族共和国の多くで、民主化運動が起き、その結果は、アゼルバイジャン、チェチェン、アルメニア、グルジア、そして最近のウクライナの例に見られるようにソ連中央もしくはロシアのモスクワ政府による陰険な弾圧による深刻な被害と後遺症である。アゼルバイジャンはその経験から学んでアリエフ大統領父子による厳密な統制と管理で経済成長に注力することができたが、ウズベキスタンの場合も、スターリン時代の弾圧の教訓から学んで、いわゆる民主化の動きで祖国が悲惨な被害を被らないように細心の注意と統制と管理に注力していると言える。

そうした状況で起きたこの事件に、カリモフ政権は強権と武力をもってのぞみ、デモ参加者に多数の死傷者が出た。欧米、とくに米国はこの事態を反民主的弾圧と見てカリモフ政権を厳しく批判したため、それまで空軍基地と提供するほど親米路線をとっていたカリモフ政権は、親ロ、親中路線に転換した。

旧ソ連邦を構成した民族共和国をめぐる地政学的環境条件にはきわめて複雑、微妙そして厳しいものがあり、その中で民族と国家のために何が良いか、何をすべきかと指導者や国民がどう考え、どう行動しているか、私達は謙虚の観察して学びましょう。現代世界の実態を理解するための貴重な教材と思います。

9. ウズベキスタン経済の課題

ウズベキスタン経済は近年、年率7〜8%で成長していると公表され、世界の中で高成長経済として関心を集めている。これは、ウズベキスタンの貴金属や一次産品の世界価格がたまたま高騰していたことが背景にあるかと思われるが、しかし、ウズベキスタン経済は克服すべき大きな課題がある。ウズベキスタンは人口規模では中央アジアの大国だが、一人当たりの所得は、旧ソ連邦を構成していたCIS諸国の中では下から3番目。世界でも低所得国の部類に入る。綿花栽培のモノカルチャーの後遺症で、バランスのとれた工業や農業生産の産業構造を構築する手がかりがまだつかめていない。中小、零細企業の比重が中央アジアやコーカサス諸国とくらべても突出して高いのも産業構造が近代化の端緒についていないことを示唆する。

独立後、カリモフ政権は絶対的に安定を志向し、自由化や競争を抑制してきた。それは政治安定を重視する観点からは一理はあるが、グローバル化の進む今日、安定化のために疑似鎖国的政策にこだわるともっとも大切な経済の潜在力を圧殺してしまうおそれがある。幸い、ウズベキスタンの人口は若く初等教育も行き届いているので、そうして人的資源がその潜在力をフルに発揮できるような経済戦略を本格的に採用することを考える時期に来ているのではないか。

10. 日本との関係

ウズベキスタンの人々の対日感情は極めて親日的といわれる。それにはいくつか理由がある。
ひとつは日露戦争の勝利だ。あの憎きロシアを東洋の小国が打ち破ったことがどれだけウズベキスタンの人々に希望を与え、日本ファンが増えたかは容易に想像できる。今ひとつのエピソードはタシケントのオペラ劇場「ナヴォイ劇場」の逸話だ。第二次大戦後、ソ連に抑留された日本人捕虜の一部はウズベキスタンで服務したが、彼らが中央アジア随一の設備を誇るナヴォイ劇場を建てた。それが1966年のタシュケント大地震でも唯一無傷だったことから日本人への好感度が一層高まったというのだ。ウズベキスタンで日本語を学習する人々の数が突出しているという事実がそれを裏付けている。

しかし、せっかくウズベキスタンが日本に熱い思いをもってくれているの対して、日本のウズベキスタンへのかかわり方は、とくに産業界の投資や技術協力などではいまひとつの感がある。韓国の企業の方が深く浸透していると聞く。投資の条件や環境その他、それなりの要因はあるのだろうが、ウズベキスタンは今の日本の対応のあり方よりもはるかに大切な国であるように思われてならない。

● 21世紀のシルクロード(マンスール氏資料)

アジア横断鉄道
 - 国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)提唱
 - アジア諸国の相互間およびアジアと欧州を接続する鉄道路線網
 - 沿線国(アジア部分)は26ヶ国
 - 路線の総延長は81000km

中国〜欧州中部の列車本数、対前年比285%(308便)中国鉄路総公司(2014/1)
 - 24時間で1000km、全行程12日間目標
中国 シルクロード経済圏構想提唱(2014/11.8)
 - 中国が独自に400億どるの基金を創設し、対象地域のインフレ整備支援。
 - 周辺地区の鉄道、通信、パイプラインなどインフラ整備

● 気候

 タシケント、サマルカンドは地中海性気候、夏、日差しが強く乾燥、冬:一定の降雨
 国内には14のワイナリー、ロシアはじめCIS諸国に輸出

● ウズベキスタン概要

 - 人口、3049万人、年齢中央値、25歳(日本46歳)、15歳以下29%(日本13%)、60歳以上6%(日本32%)
 - 面積 44万7400km2(日本の1.2倍)
 - 民族:ウズベク人80%m」ロシア人5.5%、タジク人5.0%、カザフ人3.0%、カラカルパク人2.5%

Ⅳ. 歴史

1. 古代と中世略史

紀元前10世紀頃、イラン系遊牧民が中央アジアの河沿いに灌漑システムを構築し、ブハラやサマルカンドなどの都市を構築。これらの場所は、シルクロードとして知られる中国から欧州までを結ぶ交易道の要所だったので、豊かな都市として成長した。

西暦7世紀頃、イラン人の住むマワランナフルをアラブのイスラム教徒が征服。8〜9世紀頃、この地はアッバース朝の下で学問と文化の黄金期を迎えた。テュルク人が北部から侵入した際に、彼らは新たな国家を建設し、数世代にわたりこの地を支配した。13世紀前半チンギス・ハン率いるモンゴル帝国がこの地をしばらく統治したが、マワナアンナフルはティムール王朝時代に再び文化的繁栄を享受し、サマルカンドはその富の中心となった。16世紀に入ってウズベク人の部族がこの地を含む中央アジア全域を支配した。

16世紀、ウズベク人はブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国を建国した。この時代、シルクロードは海上ルートの発展にともなって衰退しはじめていた。ハン国はイランとの戦争により孤立し、北部の遊牧民の襲撃で弱体化した。19世紀はじめ、3つのハン国、ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国は短期間、繁栄を取り戻した。

しかし、19世紀半ば、ロシア帝国が中央アジアに侵攻を開始した。かれらはとくに綿花栽培に利益を求めた。1876年までにロシア帝国は、3つのハン国すべて(現在のウズベキスタン全域に相当)を保護国化し、ハンに対しては限られた自治権のみを与えた。19世紀後半には、ウズベキスタン国内でロシア人口が増加し、また工業化も推進された。このロシア支配から現在に至る歴史についてはやや詳述する。

2. 19世紀:ロシア帝国による征服と支配

19世紀の中央アジアはいわゆるグレートゲームの荒波の中で、大英帝国と新興帝国ロシアの標的となっていたが、中央アジアの人々はそうした大状況の危険に充分気づいておらず、ウズベク人のハン国家同士で覇を競う争いに明け暮れていた。

ロシア帝国によるコーカサスの征服が1850年代後半に達成されると、ロシア帝国はほどなく帝国軍を中央アジアのハン国に派遣しはじめた。当時、中央アジアに存在した3つのハン国の主要都市であるタシュケント、ブハラ、サマルカンドはそれぞれ1865年、1867年、1868年に陥落した。1868年にブハラ・ハン国のハンはブハラをロシア帝国の保護国とする条約に調印し、ヒヴァ・ハン国は1873年にロシアの保護国になった。コーカンド・ハン国は1876年にロシア帝国に併合され、タシュケントとコーカンドはロシア総督府の直轄となった。

1876年までに、現代のウズベキスタンを構成する領土全体がロシア帝国の直轄地もしくは間接統治下の保護国となった。ブハラとヒヴァを保護国とする条約は、これらの国の外交関係を制約し、一方、ロシアの商人に大幅な自由度を与えた。保護国のハンはじこくの内政においては ある程度の自主権が認められた。

ロシアの支配開始後、数十年は中央アジアの人々の生活には大きな変化はなかった。ロシアは綿花栽培を重視したので、その生産量は増大したが、ロシア人は現地の人々とあまり交わらなかった。しかし、19世紀の最後の10年間、新たな鉄道が敷設されると、多数のロシア人が流入するようになり変化がはじまった。

1890年代、各地でいくつか反乱が起き、ロシア人は警戒を強めた。ロシアは次第にハンの内政にも干渉するようになった。ウズベク人はジャディード運動もしくはパンテュルク運動と言われた大規模な抵抗運動を展開した。この運動はもともと中央アジア土着のイスラム教文化をロシアの侵略から守ることを求める知識層の運動からはじまった。1900年までにこの運動は中央アジア地域でもっともひろがりを持つ政治的抵抗運動となった。

一方、ロシアは綿花栽培を推進したので、その関連の工業化が進展した。鉄道や綿繰り機の開発などだが、栽培された綿花は加工のためロシアに運搬されたので、中央アジアの紡績業の発展は遅かった。総督府が綿花の栽培を大きく増加させたので、食糧供給にいくつか問題が出始めたが、ロシア帝国時代は、中央アジア地域はまだ食糧は自給できていた。ロシア革命後、ソ連はウズベキスタンはじめ中央アジアに綿花生産のモノカルチュアを強制したため、農地と水管理、環境保全、食糧供給などに大きな歪みが生じ、その後遺症は今日まで続いている。この問題については別途述べる。

3. 初期ソ連時代:ジャディード運動とバスマチ蜂起

20世紀に入るまで、ロシア帝国は中央アジアで完全な支配権を確立していた。ウズベキスタンの領地は3つの政権に分かれていた。ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、そしてトルキスタン総督府だる。トルキスタン総督府はロシア帝国軍事省の直轄下にあった。20世紀最初の10年間は、独立した主権を持つウズベキスタンの共和国のもとに統合された3つの地方が存在したが、その時代は、革命、弾圧、大規模な混乱に翻弄される植民地支配の時代だった。

1900年以後、二つのハン国は内政上ある程度の自治権をあたえられていたが、ニコライ二世の名の下に統治を行っていたタシュケントの総督府には従属していた。ロシア帝国は中央アジアの広大な領地にひろく直接統治を行っていたが、一部のハンには彼らの先祖代々の土地を統治することを許容していた。この時代に温暖な気候や利用可能な土地に惹かれ、多くのロシア人が中央アジアに移住した。大都市を中心にロシア人口が増えるにつれて、ロシア文明との接触の機会が増え、それは中央アジア人の生活にも影響するようになった。

ロシアの影響は富裕な商人の子弟や若い知識層などに浸透していった。ムスリムの学校で教育を受け、ロシアやイスタンブールの大学に通ったこれらの人々のなかにジャディード運動に参加する者が増えた。ジャディード運動家は、国の独立を獲得するために、ロシアやイスタンブールの近代化運動から学び、社会や宗教までも独立のために変革すべきと信じていた。

1905年、東洋の小国、日本が日露戦争でロシア帝国に勝利したこと、またロシアでボルシェヴィキ革命が実現したことは、中央アジアで近代化を実現するために希望を与えた。革命運動で弱体化していたロシアが約束した民主主義改革は、トルキスタン総督府が1905年につづく10年間で独裁支配を回復するにつれて次第に無いこととされた。新たな総督府の弾圧とブハラとヒヴァの統治者の反動的な政治によって、多くの改革主義者が解雇もしくは投獄された。それにもかかわらず、アブドゥラウフ・フィトラトをはじめ、ソヴィエト・ウズベキスタンの未来の指導者はこの時代の革命運動から貴重な経験を獲得した。

1916年夏、東ウズベキスタンの多くの集落で、第一次世界大戦中の中央アジアの兵役免除を中止するロシアの新たな決定に対して暴動が起きた。増大する暴動に対し、報復措置が続いたため、暴動はウズベキスタンからキルギスやカザフ人への領地へと広がっていった。ここで、ロシアが放牧地の接収を行ったことで、既得権益を脅かされたウズベキスタン人は強い反感を抱いた。

ジャディード運動の次の機会は、1917年2月と10月におきた革命の勃発で訪れた。2月にはロシアのペテログラードで起きた革命運動がタシュケントでも急速に広がり、トルキスタン総統府は転覆された。しかし地方政府はソヴィエト連邦政府の権限が直接及ぶものとし、土着のムスリムは公権力から完全に除外された。ジャディード運動にかかわっている土着の指導者達はフェルガナ盆地のコーカンドにおいて自治政府を設立しようと試みたが、すぐ鎮圧された。

ジャディード運動家やその仲間達は、1922年にバスマチ蜂起と呼ばれる(これは蔑称なので、彼ら自身はそう呼ばない)ソヴィエト連邦の支配に対する抵抗運動を起こし始めた。彼らは内戦に生き残り、中央アジア各地で勢力を伸ばした。この抵抗運動は10年以上続いた。

しかし、フィトラトやファイズッラ・ホジャエフなどの指導者を含むジャディード運動参加者の多くはやがて共産党に参加するようになった。1920年、ウズベキスタン共産党初代閣僚会議議長に就任したホジャエフはブハラやヒヴァの占領に際し、共産党軍を支援した。ホジャエフは新たに建国されたブハラ人民ソヴィエト共和国の大統領に就任した。またヒヴァを首都としてホラズム人民ソヴィエト共和国が建国された。

バスマチ運動はロシア内戦としてやがて鎮圧され、レーニンの新経済政策では、地方の政治的自立や経済的自立を約束するとして、大部分の中央アジアの人々を土着の土地から引き離していった。こうした状況下で、多くの中央アジアの人々が共産党に加入し、その多くが1924年に建国された現代のウズベキスタンとタジキスタンの一部を含むウズベク・ソヴィエト社会主義共和国(ウズベクSSR)の要職についた。共産党と密接に結びついた土着の指導者たちは、地方の伝統社会の変革を推進した。女性の解放、土地の再分配、大衆規模の識字率向上運動など。

4. スターリンの時代とロシア化への抵抗

1929年、タジク・ソヴィエト社会主義共和国(タジクSSR)とウズベク・ソヴィエト社会主義共和国(ウズベクSSR)分裂した。ウズベキスタン共産党の指導者としてホジャエフは1920年代後半から1930年代前半にかけて行われたソヴィエト連邦政府の集団農場政策を強制的に実行し、同時に政府や政党におけるウズベク人の参加を増やそうとした。ソヴィエト連邦の指導者であったヨゼフ・スターリンはソヴィエト連邦内の非ロシア人共和国のすべての指導者の改革の動機に猜疑心を持った。スターリンによって、ホジャエフとウズベクSSRの要職にあった人々は1930年代後半までにすべて逮捕され、大粛清(テロル)の被害者となった。

民族愛国的な指導者の粛清後、ウズベキスタン国内の政府や政党の要職はモスクワ中央政府に対する忠誠を誓う人々で占められた。経済政策では農業の多様性は無視され、ソヴィエト連邦内の他の共和国に対する綿花の供給が強制された。

第二次世界大戦中、ヨーロッパやロシアから多くの工場がウズベキスタンや中央アジアの他の国々に疎開してきた。これに伴い、ロシアや他のヨーロッパの工場労働者が国内に流入した。土着のウズベク人は国内では農業地帯に多く居住していたため、移民が集中するタシュケントや他の大都市など都市部は急速にロシア化されていった。戦争中にウズベキスタンに移入してきたロシア人に加え、モスクワ中央政府がヨーロッパロシアにおける危険分子として認識していたクリミア・タタール人やチェチェン人、高麗人などの民族も共和国内に亡命してきた。

1953年にヨセフ・スターリンが死ぬと、ニキータ・フルシチョフ第一書記(1953〜1964)主導により全体主義的統制の緩和が行われ、粛清されたウズベク人の愛国主義者の一部は復帰を果たした。より多くのウズベク人がウズベキスタン共産党に加入しはじめ、政府の役職に任命された。しかし、ウズベク人が政府の要職についたというのは、ロシア語を話し、ロシアの価値観をもち、ロシアに帰依した人々に限られた。ロシア語は国家の公用語であり、ロシア化は政府や政党の役職を得るための前提条件だった。

ロシアの生活様式に馴染まず、ロシア語を話さない人々は、ウズベキスタンの社会では公的機関の指導的役割からは除外されていた。この伝統のため、ウズベキスタンはソヴィエト連邦内でも有数の政治的に保守的な共和国のひとつと見なされていた。

ウズベク人が社会において指導者の地位を獲得するに連れ、彼らは地方や一族の連帯を基礎とする非公式のネットワークを再び設立、構築しはじめた。これらのネットワークは一族内の援助を提供し、しばしば一族と国や政党を結びつける有益な役割も果たした。この現象の極端な例が、1959年から1982年までウズベキスタン共産党第一書記を務めたシャラフ・ラシドフ政権下で行われた政策。在任期間中、ラシドフは多くの親戚や故郷の人々を政府や政党の指導的立場に就かせた。こうして「結びついた」人々は自身の地位を、豊かになるため個人間の封建制度としてあつかった。

このようにしてラシドフはウズベキスタンからモスクワに対する劣等感を減らすことに成功した。彼の死後明らかになった所では、ラシドフは1964年から1982年までソヴィエト連邦第一書記を務めたレオニード・ブレジネフと中央政府高官に賄賂を送ることで忠実な味方出あり続けるという方法をとった。この方法が成功し、ウズベキスタン政府は次第にエスカレートするモスクワ中央政府の綿花増産要求を満たしていると虚偽の報告を行うことが許されていた。

ラシドフ死後の数十年間、モスクワはそれまで数十年間で弱まったウズベキスタンの中央政府によるコントロールを再び強化させようとした。1986年、共和国のほぼすべての政党と政府の指導者は綿花栽培の統計改ざんに拘っていたと発表された。ラシドフ自身も死後、レオニード・ブレジネフの義理の息子であったユーリ・チュリバノフとともにこの改ざんに拘っていたとされた。ソヴィエト連邦ではウズベキスタンの名は“汚職”と同義に扱われた。

ウズベク人達はモスクワ中央政府が自分達を不当に扱っていると感じており、それはやがてウズベク人のナショナリズム感情を高めることになった。中央政府によるウズベキスタンの綿花栽培の強化政策やイスラム教弾圧はとりわけタシュケントでモスクワ批判を高めた。

1989年、民族対立が暴力的な衝突に発展した(フェルガナ盆地でのウズベク人と土着のメスへティア・トルコ人、キルギスの首都オシでのウズベク人とキルギス人の衝突)件を契機に、モスクワ中央政府は、政党エリート出身ではなカリモフ氏をウズベキスタン共産党第一書記に抜擢した。これまでの粛清に関与していない非エリート層出身のカリモフ氏の任用で、緊張の緩和を意図したものとされる。

5. イスラム・カリモフ大統領の登場

ソ連ではゴルバチョフ大統領が、ペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)を唱えて政治的自由と解放をめざす体制改革を推進しようとしていたが、ウズベク人の不満は鎮静しなかった。彼らは、これまで表現できなかった綿花スキャンダルや粛清問題などを批判の対象としはじめた。モスクワ中央政府がウズベキスタンに綿花栽培と関連機器の生産を過度に強制するために水資源が枯渇し、生活物資の生産が抑制され、雇用が不足するなど、環境問題や生活問題が深刻化していたが、さらに、ソビエト軍に組み込まれたウズベク人兵士が受ける差別が迫害なども取り上げるようになった。

1980年代後半までには、こうした不満を抱える知識人階層が中心となっていくつかの政治組織が結成された。その中でも、“ピルリク(統一)”という政党が注目された。ピルリクは農業の多様化、アラル海の環境維持、ウズベク語の公用化などあまり政治的でないテーマを掲げて運動を展開したため、ウズベク政府と共産党にたいする脅威にはならなかったが、それでもカリモフ氏が共産党の第一書記に就任することが明らかになると、ほとんどの、とりわけ都市圏以外のウズベク人は共産党と共産党政権を支持した。ピルリクの知的なリーダー達は国民の多様な層に浸透できなかった。

1991年8月、ゴルバチョフ政権に不満をいだいた強硬派がクーデターを起こしたが、これがきっかけになって、ソヴィエト連邦の各地で独立運動が勃発した。ウズベキスタンは当初、静観の構えをとっていたが、8月31日、ソヴィエト連邦からの独立を宣言した。1991年12月、国民投票の結果、98.2%が独立に賛成した。同月、ウズベキスタン議会が開設され、イスラム・カリモフ大統領が新たなウズベキスタン共和国の大統領になった。

ウズベキスタンが独立すると、カリモフ大統領と政府は新たな現実に対応するために迅速な行動をとる必要に迫られた。まず、ウズベキスタンがこれまで70年間に亘って享受してきた補助金を支給するモスクワ中央政府はもはや存在せず、市場経済の原則にしたがって投資受け入れや外債発行によって資金を調達する必要があった。また、ソ連邦時代には認められなかった外交権を活用して世界の諸国と外交関係を樹立する必要があった。しかし、市場経済環境の下では、ウズベキスタンが人権問題などで投資対象国としてふさわしくない、と判断されれば、ただちに外国からの投資が収縮するというソ連邦時代には直面することがなかった新しいリスクに注意する必要があった。カリモフ大統領は、反ロシア的な愛国主義者の活動を容認したので、ロシア系の人々の8割、もしくは約200万人がウズベキスタンを去っていった。

しかし、イスラム教徒達が公務に携わる機会は欠如しており、それはイスラム過激派を増やす一因になっていた。1999年2月、タシュケントでは、あきらかにカリモフ大統領を狙って車に搭載された爆弾が爆発したが、大統領は危機を回避し、暗殺計画は未遂に終わった。政府は爆弾事件の首謀者を「ウズベキスタン・イスラム運動(IMU)」と断定。犯行に加担したと疑われた何千人もの人々が逮捕され、投獄された。テロ活動はとりわけ国内の南部地域で多かった。

2004年の3月には、ブハラとタシュケントで連続してテロ事件が起きた。3月28日、ブハラの中心街で起きた爆弾テロで10人が犠牲者になった。翌29日、タシュケントの中央市場付近で2人の女性による自爆テロがあり、2人が死亡、20人が怪我を負った。同日、3人の警察官が撃たれて死亡。ブハラではテロリストのものと疑われる爆弾が工場内で爆発、10人が死亡した。これら一聯のテロについては、後に、国際テロリスト組織から犯行声明が出された。

カリモフ大統領は、これらのテロは禁止された政党の過激派集団、ヒズブ・タリフール(解放党)によるものと主張したが、彼らは関与を否定した。犯行は、タジキスタンやアフガニスタンを本拠地とし、2001年9月11日以降、アメリカ合衆国に対するウズベキスタン政府の支援に反対していた軍事集団の可能性が高いとされている。

2004年7月30日、テロリスト集団はタシュケントにあるイスラエルとアメリカ合衆国の大使館に爆弾を持ち込み、3人が死亡、数人が怪我を負った。テロ専門家は、これらのテロの主要因はアメリカ合衆国の反テロ政策とそれに同調するウズベキスタン当局の支援にあるとしている。

2005年5月13日には、世界中に知られたアンディジャン事件が勃発した。武装勢力がアンディジャン市の刑務所を襲撃、受刑者を解放するとともに政府の建物を占拠した。同時に市内において、大統領の退陣を求める住民による大規模なデモも発生した。これに対し、政府側は治安部隊を投入。鎮圧の際に、一般市民に対して発砲があり、数百名(実数は不明)の死者が生じたとされる。欧米諸国などは国際的な枠組みの中での調査を求めているが、ウズベキスタン側からは詳細な経緯も公表されず、人権問題として国際的な関心を呼んだ。

この事件は、ウズベキスタンの政治外交姿勢に大きな変化をもたらす契機になった。それまでウズベキスタンはなるべく旧ソ連の影響を減らそうという外交姿勢をとっていたが、欧米の批判が高まるなかで、孤立したウズベキスタンは、駐留アメリカ軍を撤退させるとともにロシアと同盟関係を結び、外交姿勢をロシア、中国よりに大きく転換した。

2005年7月、ウズベキスタンは、アンディジャン事件に際して非難したアメリカ合衆国に対し、カルシ・ハナバード空軍基地から180日以内に撤退するよう要求した。ちなみにロシアとドイツの空軍基地は現在もウズベキスタン国内に存在している。

2007年12月、イスラム・カリエフ大統領は、再選を果たした。しかし、この選挙は、厳しく制限された環境で行われ、カリモフ氏以外に投票することが憚られる状況だったと欧米のメディアがつたえている。いいかえれば、事実上対立候補が居ない状況で投票が行われた。それまでのウズベキスタン憲法では大統領は2期限りとしており、そのままでは3期目に臨むことは憲法違反となるが、カリモフ大統領は憲法における大統領選挙規定を変更し3期以上の任務を可能としていた。

Ⅴ. 政治

● 大統領: イスラム・カリエフ

 首相:シャヴカト・ミルズィヤエフ
 大統領選 2015年3月29日投票日

● ウズベキスタン議会

  二院制:上院定数 100名、下院定数 150名 任期は5年

      2014年12月21日、下院選挙実施
   国際監視団、ウズベキスタン共和国中央選挙委員会招聘
    公式国際監視委員:40ヶ国、300人以上、日本からは13人。

 国家元首である大統領は、ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国大統領であったイスラム・カリモフ氏が独立以来、その職にある。首相と副首相は大統領が任命する。大統領官邸はオクサロイ宮殿。

● Karimov, Iskam Abduganiyevich

1938年1月30日、サマルカンド市の勤労者家庭に生まれる。ウズベク人
1960年中央アジア工業大学卒、機械工学専攻、
1960年タシケント市の農業機械製作工場「タシセリマシ」で職長補佐、生産管理技師として働く。
1961〜66年、チカロフ記念タシケント航空生産合同の技師、設計技師。
1967年タシケント国民経済大学卒業、経済学博士候補。
1966〜83年、ウズベク共和国国家計画委員会主任専門官、部長、副議長、第一副議長。
1983〜86年、ウズベク共和国財務大臣。 1984年、入党。
1986年、同共和国閣僚会議副議長、国家計画委員会議長、
1986年12月〜1989ウズベキスタン共産党カシカダリヤ州委員会第一書記
1989年6月〜1991年、ウズベキスタン共産党中央委員会第一書記
1989〜91年、ソ連邦人民代議員。
1990年3月、最高会議でウズベキスタン共和国大統領に選出される。
同年7月から、党中央委員、政治局員。
1990年11月〜1992年1月ウズベキスタン共和国内閣議長
1991年8月ウズベキスタン共産党はウズベキスタン人民・民主党に改名。党首となる。
1990年3月、ウズベク社会主義共和国最高会議において大統領に選出、
1991年12月、第一回国民投票でウズベキスタン共和国大統領に選出される。
2000年1月、大統領選で再選(2002年1月大統領の任期は5年から7年に延長)。
2007年12月23日、大統領選で大統領再選(投票率90.6%、得票率88.%)2008年1月就任式

● 参考(外務省資料)

大統領:1991年12月、ソ連の解体とともに独立。初代大統領に選出されたカリモフ氏は、1995年12月の国民投票により任期(5年、1人2期)を2000年まで延期。2001年に再選。その後、2002年1月の国民投票による憲法改正で任期を7年間に延長(2007年1月まで)。2007年12月大統領選挙でカリモフ氏は3選された。

● 参考

ー独立後のウズベキスタンは、政治・経済両面で強力な国家の指導体制を維持。
 ウズベキスタン政府は機構・人事両面で独立来、CIS諸国では異例の安定を保っており、その硬直的なまでに安定して体制を強力な指導力をもって率いているのがカリモフ大統領だ。
ー2007年12月の大統領選では、88.1%という圧倒的得票で再選された。ちなみに当初5年だった大統領任期は、2002年初の憲法改正で7年に延長された。

● 議会はアリー・マジュリス(Oliy Majlis)と呼ばれ、一院制で任期5年、250議席。

アリー・マジュリスの初の選挙は1994年の第16回最高会議での決議にもとづいて実施。
同年、最高会議はアリー・マジュリスとその名称を変更。これまで4回の大統領選挙。
すべてイスラム・カリモフ氏が選出されている。

議会は定員150人の下院(日本の衆議院に相当)と100人の上院(日本の参議院に相当)から成る。それぞれ任期は5年。第三回の選挙は2009年12月27日に、第2回選挙は2004年12月から2005年1月にかけて行われた。アリーマジュリスは2004年まで一院制だったが、2002年の国民投票の結果、次期選挙から二院制に移行することとなった。議会に参加する議員数は1994年には69名だったが、2004〜2005年に120名に増加。現在は150名まで増加。

現在、旧ウズベキスタン共産党から改組されたウズベキスタン人民民主党を中心とする諸政党がイスラム・カリモフ大統領の支持勢力として議会を支配している。カリモフ大統領はウズベキスタンの独立後、自己献身・国民民主党に所属していたが、2007年にウズベキスタン自由民主党に党籍を移した。いずれもカリモフ政権の支持政党。

行政府は絶大な権力を握る。立法府は法案成立の際に多少影響力をもつにすぎない。1995年12月27日に行われた国民投票の結果、イスラム・カリモフは2選を果たし、その後、2002年1月に行われた国民投票の結果、大統領の任期は5年から7年に延ばされた。

これら一連の選挙に関し、ほとんどの国際監視員は正当とは認めていない。2002年の国民投票には下院(Oliy Majris)と上院(Senate)の二院制への移行計画に関する投票が含まれていた。下院議員は専業の国会議員。新たな二院制移行に関する国民投票は12月26日。カリモフ大統領の周辺では、アクバル・アブドゥラエフの大統領選出に向けた動きも見られる。

欧州安全保障協力機構(OSCE)は制限された監視行動の中で、ウズベキスタン国内の選挙はOSCEやその他の民主主義選挙に関する国際基準を全く満たしていないと評価している。複数の政党が政府の承認の下に設立されたことになっており、また新聞、テレビ、ラジオなどさまざまなメディアはあるが、これらはすべて政府のコントロール下にある。独立した政治政党の設立や党員募集、党大会、記者会見などは禁止されていないが、登録手続は制限が厳しく登録が拒否されることが多い。

● 参考(外務省資料)

議会:議会では「人民民主党」と改称した共産党が大勢を占め、大統領を支持していたが、2004年12月に実施された二院制移行後の議会選挙で、大統領の新党「自由民主党」が第一党になった。イスラム急進派の活動を禁止しており、キルギス、タジキスタンとの国境付近におけるイスラム勢力の動きを警戒している。
民族紛争:1989年フェルガナ事件(ウズベク人とトルコ系メフス人との衝突)、1990年のオシュ事件(ウズベク人とキルギス人との衝突)というの民族対立の他、1999年2月、2004年4月、7月にはタシケント市等で爆発事件発生
アンディジャン事件:2005年5月、フェルガナ盆地アンディジャン市で武装勢力による刑務所等の襲撃や住民による反政府デモが起き、治安部隊が鎮圧の際に一般市民に発砲、数百名の死者が出たとされる。

● 人権

ウズベキスタン共和国憲法では、「ウズベキスタン共和国の民主主義は、個人の生命、自由、名誉、尊厳 その他固有の権利を至上の価値とする基本的な人道にもとずく」と宣言している。

人権に対する公的な姿勢は「人権の確立と奨励に関するウズベキスタン共和国政府の取り組み」という覚え書きに以下のように要約されている。

「政府はウズベキスタン市民の人権を保護、保証するためにあらゆる手段を用いる。ウズベキスタンは人道的な社会の実現のため、継続的に法改正を行っていく。人々の基本的人権を規定するための300以上の法案が議会を通過した。例としてオンブズマン事務所が1996年に設立。2005年8月2日、大統領は2008年1月1日より死刑を廃止する法令に調印。

しかし、国際ヘルシンキ人権連盟(HF)、Human rights watch, Amnesty Internationalなど非政府の人権団体はアメリカ国務省や欧州連合理事会とともに、ウズベキスタンくを「市民権が制限された権力主義国家』と定義。「あらゆる基本的人権に関する広範囲の侵害」が生じていることに重大な懸念を表明。

報告によると、最も広範囲で見られる人権侵害は拷問、恣意的な逮捕、そして信教の自由、言論の自由、出版の自由などさまざまな制限が挙げられる。また地方では、ウズベキスタン女性にたいして、強制不妊手術を行う事が政府によって容認されているという報告もある。また、宗教団体の会員、独立したジャーナリスト、人権活動家や禁止された敵対政党の党員を含む政治活動家などに対する人権侵害が頻繁に行われているとの報告もある。

2005年のアンディジャン事件では、結果として数百人が死亡したが、これはウズベキスタンの人権侵害の歴史の中でも大きな事件だった。アメリカ合衆国、欧州連合、CSCE議長やCSCE民主主義人権研究所などから深い懸念が示された。ウズベキスタン政府が人命を不当に奪い市民の集会の自由と表現の自由を否定していることにも非難がでている。政府はこれらの非難を真っ向から否定したうえで、必要最小限の武力を用いて反テロ活動を展開したに過ぎないと主張。されに政府の一部官僚は、「ウズベキスタンに対して情報戦がしかけられている」と述べ、アンディジャンの人権侵害」はウズベキスタンの内政に干渉するのに都合のよい口実としてウズベキスタンの敵対勢力がでっちあげたもの、と主張した。

タジク人が彼らの母語であるタジク語を学校で教えることは禁じており、タジク語(もしくはペルシャ語)の文学作品が破壊された例もある。

Ⅵ. 経済

● ウズベキスタン概要

- 人口、3049万人、年齢中央値、25歳(日本46歳)、15歳以下29%(日本13%)、60歳以上6%(日本32%)
- 面積 44万7400km2(日本の1.2倍)
- 民族:ウズベク人80%m」ロシア人5.5%、タジク人5.0%、カザフ人3.0%、カラカルパク人2.5%

● 人口

ウズベキスタンは中央アジアで最も人口の多い国。2001年時点の人口は2515万人。2012年時点では29.559,100人。中央アジア全体の約半数を占める。

ウズベキスタンの平均年齢は低く、全人口の約34%は14歳以下(2008)。主要民族のウズベク人が全人口の80%。その他は、ロシア5.5%、タジク人5%、カザフ人3%、カラカルバク人2.5%、タタール人1.5%など。

● 教育

教育への公的支出 (対GDP)
 - 国家予算の8.1%、 日本 公的支出:3.6%
教育制度
 - 4.5.3.4制、 初等・中等教育 12年間
大学進学率 1割程度

● GDP 名目 511.9億ドル(日本:59377.7億ドル)

一人当たりGDP 名目 1721ドル(日本 46530ドル)
一人当たりGDP PPP 3488ドル(日本 3672ドル)
経済成長率 8.2%、日本 1.4%

● 産業構造

就業人口比:
 - 第一次産業 25.9% 日本 4.2%
 - 第二次産業 13.2% 日本25.2%
 - 第三次産業 60.9% 日本70.6%

主要産業:
 - 綿繊維産業、食品加工、機械製作、金、石油、天然ガス

● 経済政策

国内政策:
 - 外国投資の積極的な導入
 - 民営化プロセスの更なる発展
 - 中小民間企業の育成

投資を期待される分野(マンスール氏)
 - 製造業と技術(工業団地・経済特区)
 - 鉱物資源と開発とエネルギー分野
 - 省エネルギーと環境ビジネス
 - 繊維産業
 - 農業
 - 観光

  • IMFの統計によると、2011年のGDPは453億ドル。香川県規模。一人当たりは1572ドル、世界平均の20%に満たない。2011年アジア開銀資料では1日2ドル未満で暮らす貧困層は1248万人で国民の4割。近年は豊富な天然ガス関連の投資を多く受け入れており、経済成長は比較的好調。
  • ウズベキスタンの金埋蔵量は世界4位。国内では毎年約」80tの金が採掘。世界7位。石炭埋蔵量は世界10位。ウラン埋蔵量は世界12位。国内ウラン生産量は世界7位。国営ガス会社、ウズベクネフテガスは世界11位の天然ガス生産量。年間600〜700億m3。ウズベキスタンにはまだ未開拓の石油や天然ガス資源が存在。国内には197の炭化水素の香山。この内98が天然ガス田、96がガス田となっている。
  • ウズベキスタン国内でエネルギー関連事業に大きな投資をしている企業:中国石油天然気集団(CNPC), Petronas, 韓国石油公社(KNOC), ガズプロム、ルクオイル、ウズベクネフテガスなど。
  • 多くのCIS諸国と同様に、ウズベキスタン経済はソヴィエト連邦時代の社会主義経済から資本主義経済への移行期であった初期に一旦減少し、政策の影響が出始めた1995年頃より徐徐に回復している。ウズベキスタンの経済は力強い成長を示しており、1998年〜2003年までの間は平均4%の経済成長を実現。以降は毎年7〜8%の成長率。IMF概算。2008年のウズベキスタンのGDPは1995年時点での約2倍。2003年以降、年間のインフレ率はかなり平均10%を下回る。
  • 一人当たり国民総所得(GNI)は非常に低く、2006年時点で610USD, PPPは2250USD。PPPと比較した一人当たりGNIは世界206国中169位と低く、12のCIS諸国の中でウズベキスタンより下位にあるのはキルギスとタジキスタンのみ。経済は加工品でなく一次産品に集中。2011年時点、ウズベキスタンは世界7位綿花生産国、世界5位の綿花輸出国。世界7位の金採掘国。他に天然ガス、石炭、銅、石油、銀、ウラン等が主要産品。
  • 農業労働者はウズベキスタン人口の28%。農業はGDP全体の24%(2006)。就業率は高いとされているものの地方では低い。少なくとも20%以上が失業中と推計。未だに、綿花収穫時には、すべての学生、教師、公務員はボランティアで駆り出されている。ウズベキスタンの児童労働はテスコ、C&A, Marks and Spencer, Gap, H&Mなどで報告されている。これらの企業は綿花の収穫作業をボイコットしている。
  • 独立達成後に多くの経済問題に直面したことで、政府は国による管理、輸入量の減少、エネルギー自給率の増加等を軸とした改革戦略を採択。1994年以降、国のコントロールを受けたメディアはこの「ウズベキスタン経済モデル」の成功を繰り返し喧伝。経済ショックや貧困、停滞をさけて市場経済へスムーズに移行するための唯一の方法を主張していた。
  • 漸進的な改革戦略は、重要なマクロ経済や構造改革を一旦中止していることからも読み取れる。官僚の経済にたいする影響は大きい。汚職が蔓延している。2006年2月の国際危機グループの報告によると、核となる輸出品、特に、綿花、金、トウモロコシ、天然ガス等から得られた収入は少数のエリート支配層に還元され、国民の大多数には少ししか、あるいは全く還元されない状況とされる。
  • 経済政策は外国企業の投資に反撥する姿勢。CIS諸国で最も国民一人当たりの外国企業による投資額が低い。ウズベキスタン市場に投資を行う外国企業にとって最大の障碍は長年にわたる通貨交換の困難さ。2003年、政府は通貨兌換性を完全に保障するというIMF第8条の義務を承認した。しかし、国内で使用する通貨に対する厳しい制限や通貨交換の量が限られていることから、外国企業による投資の効果は減殺されていると考えられる。
  • ウズベキスタンは、独立後の1992年から1994年にかけて、年間1000%もの急激なインフレを体験している。IMFの助けを借りて経済安定化の努力が行われ、インフレ率は1997年には50%に減少、されに2002年には22%にまで減少。2003年以降、インフレ率は平均10%未満となっている。2004年の緊縮財政政策は結果としてインフレ率の大幅な低下につながり、インフレ率は3.8%まで低下した(ただし、マーケットバスケット方式で測ると物価上昇率は15%と推計)。インフレ率は2006年には6.9%、2007年には7.6%に上昇したが、一桁台の数字を維持しつづけている。
  • ウズベキスタン政府は関税を含むさまざまな方法で外国製品の輸入を制限している。地方の生産を保護するため高い関税がかけられている。関税など公式課税のみならず非公式のコストも重なって、輸入代替戦略の下では、輸入品に市場価格の1〜1.5倍の実質課税がかかることから、輸入品の価格は実質に見合わない高価なものとなっている。輸入代替は公式に宣言されている政策だが、ウズベキスタン政府はこの実質関税加算は減少しているとしている。なお、CIS諸国からの輸入品にはこれらの関税、課税は賦課されない。
  • タシュケント証券取引所(共和国証券取引所 RSE)は1994年に取引開始。約1250のウズベキスタンのジョイント・ストックカンパニーの株式や債権が取引されている。2013年1月、上場企業数は110に増加。証券市場の発行済み株式総数は2012年で2兆。2013年1月には9兆。急速な成長。
  • ウズベキスタン経済の国際的地位は2003年以降、急速に強化。金や綿花の世界史上価格の上昇(回復)。天然ガスやその他生産品輸出の増加、労働力移入の増加などさまざまな要因で、近年の国際収支は大幅な黒字へ。2003〜2005年の間は、GDP比9〜11%に。金を含む外貨準備高は約30億USドル。HSBCの調査によると、ウズベキスタンはこれから10年間で世界でも最も成長の速い国家(トップ26)になると予測。
(Alisher Abdusalomov氏資料)
● GDP 成長率

  2005年  7 %       2010年  8.5%
  2006年  7.3%       2011年  8.3%
  2007年  9.5%       2012年  8.2%
  2008年  9 %       2013年  8 %  
  2009年  8.1%       2014年  8.1%

● インフレ率

  2002年   21.6%       2008年  7.8%
  2003年    3.8%       2009年  7.4%
  2004年    3.7%       2010年  7.3%
  2005年    7.8%       2011年  7.6%
  2006年    6.8%       2012年  7 %
  2007年    6.8%       2013年  6.8%

● 中小企業生産比率(GDP)

  ウズベキスタン     55.8%    キルギス      42%
  ウクライナ          7%    カザフスタン     20%
  タジキスタン        45%    ベラルーシ     24%
  ロシア            21%    アゼルバイジャン  12%

● 農業
  • ウズベキスタンはソ連時代の計画経済によって、綿花栽培の役割を割り当てられた過去があり、そのため近年に鉱産資源の開発がすすむまでは綿花のモノカルチャー経済に近い状態だった。その生産量は最高500万屯に達し、2004年度でも353万屯を誇る。しかしウズベキスタンは元来降水量が少なく綿花栽培には向いていなかった土地であったため、近年では灌漑元である

アラル海の縮小や塩害などに悩まされている。
また綿花栽培に農地の大半を割いているため、各種穀物、果実野菜等を生産できる土地を有しながら、その食糧自給率は半分以下である。

● 鉱業

ウズベキスタンはエネルギー資源として有用な鉱物資源に恵まれている。有機鉱物資源では世界生産量の2.2%に達する天然ガス(2175千兆ジュール、2001)が有望。271万屯の亜炭、379万屯の原油も採掘。金属鉱物資源では、世界シェア4.9%のウラン(1770トン、世界7位)が際立つ。鉱業セクターは輸出にも貢献。エネルギー輸出は全輸出額の10.3%。
その他の金属
 鉱物資源: 金(90t, 世界9位)、銀、リン鉱石も。

● 環境

アラル海に面しているが、旧ソ連時代に行われた国土の風土に合わない無茶な綿花栽培のため、アラル海の面積が急激に縮小している。

ソヴィエト連邦時代の政策により、ウズベキスタン国内では数十年にわたって綿花の過剰なまでの生産が行われ、結果として環境に非常に大きな悪影響が及ぼされた。農業分野は国内で深刻化している水質汚濁や土壌汚染の被害を最も深刻に被っている。

アラル海はかつて地球上で4番目に大きい湖であり、周辺地域の湿度を保ち、乾燥した土地で農業が行える大きな要素になっていた。1960年以降の10年間でアラル海の水の過剰利用が行われ、アラル海は元の50%にまで面積が縮小。水量も1/3にまで減少した。信頼できるデータは公的機関や組織からまだ発表されておらず、情報の収集も進んでいない。現在も水の大部分は綿花や、栽培に大量の水分が必要とされる作物の栽培の灌漑用水として使用され続けている。

この環境破壊の危機の責任の所在は明らか。1960年代に自然改造計画によって国内の河川に大量にダムを建設しアラル海へ流入する水量の減少と河川の水の乱用を推し進めた旧ソ連の科学者や政治家、そしてソヴィエト連邦崩壊後ダムや灌漑システムの維持に充分な対策をせずに環境問題対策に充分な費用をかけてこなかったウズベキスタンの政治家にある。

アラル海の問題のため、特にアラル海に近いウズベキスタン西部にあるカラカルバクスタン地域では、途上に高い塩分濃度が検出されているうえ、重金属による土壌汚染が広がっている。また、国内の他の地域においても水資源のほとんどは農業に使用されており、その割合は84%にのぼる。これは土壌の塩分濃度上昇に拍車をかけている。また、収穫増加のために綿花農場における防虫剤や化学肥料の乱用をおこなったことで、深刻な土壌汚染が進んでいる。

● 参考:
  • 経済は大規模灌漑による綿花栽培およびその関連産業を特色。綿花の生産量は世界6位2006年
  • 地下資源:金2005年推計で生産高90t,石油、天然ガス等。天然ガスは全ソ連の5%を占めた。
  • シルクロードの国、サマルカンド、ブハラ、ヒワ、コーカンドなど古来、東西交易の要衝として栄えた都市が数多く存在。
  • 19世紀後半、この地域を支配下においたロシア帝国はトルキスタン省を設立、タシケントを省都とし、綿花栽培を中心とする植民地経営。
  • 革命後の1924年、ソ連中央が行った中央アジア民族教会画定により、現在の国境線のもとにウズベク・ソヴィエト社会主義共和国が連邦構成共和国として設立された。
  • ソ連治世下では綿花生産が一層注力され、大規模灌漑事業により、収量・作付け面積とも著しく拡大した。しかし、工業は天然ガスをはじめとする地下資源開発と、原綿収穫機械製造、化学肥料工業など綿花関連分野のみの限定的な発展にとどまり、結果、産業構造は現在に至る後進性を負うにいたる。
  • 政治同様、経済面でも、ウズベキスタンは自由化・市場経済化において、政府の管理を強く維持したままでの “漸進改革”を標榜。IMF型の急進的市場経済化を否定するため国際的評価は低いが、いわゆるシステム・ショックが抑制されることから、経済の安定を維持するためには効果が高く、連邦崩壊直後の90年代前半、他のCIS諸国が軒並み生産を半減させるなか、ウズベキスタンのGDP低下は独立前の20%以内にとどまった。
  • しかし、低下は最小限にとどめたものの、自由化の遅れた経済体制は成長力に乏しく、近年はカザフスタンら近隣の資源国の急成長ぶりに大きく水を開けられている。2006年の国民一人あたりGNIは、ロシア5770ドル、カザフスタン3870ドルに対してウズベキスタンはわずか510ドルにとどまった。
  • 格差を反映し、近年はウズベキスタンからこれら諸国への出稼ぎが盛んとなっている。出稼ぎ送金の増加と、主力輸出品の金・炭化水素資源の国際価格高騰により、ウズベキスタン経済は過去4年にわたり7%を超える高成長を記録。ただし、こうした外的好要因による現行の成長を長期的発展につなげるには、自由化・市場化の推進による国内産業活性化が必要。
● 経済指標(外務省資料)

 GDP: 512億ドル(2012)
  一人当たりGDP: 1367ドル(2012)
  実質GDP成長率:8.2%(2012 IMF)
  物価上昇率:12.1%(2012)
  失業率: 0.2%(2010)
  貿易額:輸出、130.4億ドル、輸入 88.億ドル
  主要品目:輸出:石油、ガス、石油製品、綿繊維、サービス、食料品、鉄・非鉄金属
       輸入:機械・設備、化学製品、食料品、鉄・非鉄、石油製品
  主要貿易相手国: 
       輸出:ロシア、中国、カザフスタン、トルコ、アフガニスタン
       輸入:ロシア、韓国、中国、カザフスタン、ドイツ
  通貨:スム(sum)
 経済概況:
   ー独立当初より市場経済化については漸進的なアプローチを採用した結果、CIS諸国の
    なかでは独立後の経済の落ち込みは比較的緩やか。GDP成長率は2004年から
    7〜9%の高水準。
   ー主要産業は、綿花栽培、また天然ガス、ウラン、金など豊富。
    一次産業が主体の経済。産業高度化が必要

Ⅶ. 外交関係

● 外交基本方針(外務省資料):

独立後はロシア依存を脱却する全方位的外交を展開し、2001年9月の米国における同時多発テロ事件後は、国内空軍基地に米軍駐留を認めるなど米国との関係強化に努めてきた。しかし、2005年5月のアンディジャン騒擾事件と受け、事件への対応に批判的な欧米各国との関係は多きく悪化し、カリモフ政権の立場と支持するロシア、中国との関係強化が進んだ。
2005年11月には米軍撤退が完了する一方で、ロシアと同盟関係条約を締結。
2006年1月にはユーラシア経済共同体(EAEC)に加盟。6月にはCIS集団安全保障機構(CSTO)への復帰を決定。2006年9月には、ロシアと反テロ共同軍事演習を行った。ただし、最近は、EUや米国から政府高官のウズベキスタン訪問が相次ぐなど欧米との関係改善の兆しがみえている。なお、ウズベキスタンは2008年10月にはユーラシア経済共同体(EAEC)、2012年6月にはCSTO.に対する自国の加盟資格を停止している。

全方位外交を展開。ロシアと同盟関係を強化する一方で、CIS諸国を含むアジア諸国や欧州、アメリカとも友好関係を保っている。

ウズベキスタンは1991年12月に独立国家共同体(CIS)に参加した。しかし、1999年にCIS集団安全保障体制から脱退した。これ以降、ウズベキスタンは自国の安定に影響を及ぼすタジキスタンとアフガニスタン両国の紛争の解決を手助けするためにタジキスタンのCIS平和維持軍や国連の平和維持軍に参加している。

かつては、アメリカ合衆国とウズベキスタンの関係は良好だった。2004年にはアメリカ合衆国はウズベキスタンに軍事費の約4分の1にあたる5億USDを援助。ウズベキスタン政府はアメリカ合衆国によるアフガニスタンへの空軍軍事作戦に際し、カルシ・ハバード空軍基地の使用を許可していた。ウズベキスタンはアメリカの掲げる世界規模の反テロ戦争の積極的な支持者であり、アフガニスタンとイラクの両地域において支援作戦を展開していた。

ウズベキスタンとアメリカ合衆国の関係はグルジアやウクライナで2000年頃に起きた「色の革命」(後にキルギスにも影響が拡大)の後、悪化が進んだ。アメリカ合衆国がアンディジャンの流血事件に対して独立した国際調査団参加に名乗るをあげると、両国の関係は極めて悪化。カリモフ大統領は外交路線を転換し、人権侵害非難を支持することのなかったロシアや中国に接近する姿勢を見せるようになった。

2005年7月後半、ウズベキスタン政府はアメリカ合衆国にアフガニスタン国境に近いカルシ・ハバード空軍基地から180日以内に撤退するよう命じた。カリモフは9.11以降の短期間、アメリカ合衆国に空軍基地使用を申出ていた。ウズベキスタン人の中にはアンディジャン事件にたいする抗議によるアンディジャン地区におけるアメリカ合衆国やイギリスの影響力増かへの懸念が撤退命令につながったという説もある。

ウズベキスタンは、1992年3月2日より、国際連合に加盟したほか、欧州・太平洋パートナーシップ理事会(EAPC),平和のためのパートナーシップ(PFP), 欧州安全保障協力会議(OSCE)のメンバーでもある。またイスラム協力機構(OIC)や経済協力機構(ECO, 中央アジアの5ヶ国、アゼルバイジャン、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンで構成)にも所属。なお1997年に加盟してGUUAMとなったが、2005年に脱退。

ウズベキスタンは上海協力機構(SCO)のメンバー、タシュケントでSCO地方反テロ構造(RATS)を開催している。ウズベキスタンは2002年に設立されたユーラシア経済共同体(EAEC)に加盟している。EAECはウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、ロシア、ベラルーシから構成。CACOはキルギスとカザフスタンにより設立された中央アジア連合が発展改称する形で設立された組織であり、ウズベキスタンはEAECの創立メンバーとして加盟している。2006年9月、UNESCOはカリモフ大統領がウズベキスタンの豊かな文化と伝統をを保存した功績により表彰した。批判はあるが、ウズベキスタンと西欧の関係を発展させたひとつの証とする見方もある。

2006年10月にはもうひとつウズベキスタンが西欧からの孤立を脱却できる出来事があった。EUは人権や自由に関して対話をするため、長期に対立していたウズベキスタンにたいして使節団を送る計画があると発表した。アンディジャン事件によるウズベキスタンにたいする経済制裁をEUは明らかの弱める意志を示した。しかしウズベキスタンの人々の間には、2004年から2005年にかけてのアンディジャンなどでの抗議はアメリカ合衆国やイギリスのウズベキスタン批判によって引き起されたという見方が根強く、西欧との関係改善には曲折が予想される。

● 参考:

軍事力:
   総兵力:48000人(陸軍24500、空軍7500、統合軍16000)、準兵力20000人
   ドイツ軍が駐留。

● 参考:
  • 大統領の権力基盤が盤石である一方、ウズベキスタンでは旧ソ連末期から地政学的条件による政治リスクの高さが指摘されてきた。人口が調密かつ宗教的伝統を比較的強く保持するフェルガナ盆地を国内に擁し、またアフガニスタン、タジキスタン(独立〜1997年まで内戦を経験)等の紛争多発地域と国境を接しているためである。
  • 紛争の流入と国内における不安醸成を警戒する政府は、宗教過激派をはじめとする反政府勢力を厳しく弾圧。国際社会とくに欧米諸国からしばしば非民主的との批判を受けた。
  • カリモフ政権にたいする西側の批判は、9.11以後、ウズベキスタンが反テロ軍事行動に積極的な協力方針をとったことから一時弱まる。しかし、2005年5月、フェルガナ盆地で勃発した大規模な反政府暴動にたいし、政府は武力による鎮圧を強行(アンディジャン事件)これを欧米は強く非難し、両者の間には深刻な亀裂が生じた。他方、ロシア、中国との間では政経両面で関係強化が進み、良好な関係。

Ⅷ. 日本との関係

日本との間も官民両面で友好関係を保っており、両国相互に大使館がある。第二次大戦後シベリアに抑留された日本人捕虜は首都タシケントにも廻され、中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場たるナヴォイ劇場の工事などに従事。1966年タシュケント大地震でも全く無傷という、過酷な強制労働だったにも拘らず、見事な仕事を為した。それが、現在、ウズベキスタンで対日感情が良いことに繋がっている。

日本とのつながりー現代(マンスール氏資料)

第二次大戦後、日本人抑留者が建設に携わったタシケントのオペラ劇「ナボイ劇場」
2002年にそのナボイ劇場の周りと現地で亡くなった日本人抑留者の墓に桜の木が植えられた。
ウズベキスタンでの日本語学習者数は1628人(中央アジアで1位)
日本の大学の現地タシケント事務所: 筑波大学、名古屋大学

外務省資料

―日本の援助実績:
   ・有償資金協力:1430億円(2012まで累計)
   ・無償資金協力:223億円
   ・技術協力:  144億円
―両国関係:
   ・国家承認日:1991年12月28日
   ・外交関係開設日:1992年1月26日
   ・日本大使館開設: 1993年1月
   ・在日ウズベキスタン大使館開設:1996年2月
ー貿易: 日本から輸出:120億円、自動車、ゴム製品、
     日本への輸入:99億円、金、綿織物等
ー在留邦人: 117人(2013年10月)、在日ウズベク人:1106人(2013年12月)。

国際関係:中立外交、親日(マンスール氏資料)

日本ウズベキスタン、トップ交流
   1994年5月、イスラム・カリモフ大統領訪日
   2002年7月、イスラム・カリモフ大統領訪日
   2006年8月、小泉純一郎総理ウズベキスタン訪問
   2011年2月 イスラム・カリモフ大統領訪日

日本とのつながり―日本の機関、企業(以下、マンスール氏資料)

 JICAタシケント事務所(1999開設)
 JETROタシケント事務所(2000開設)
 ウズベキスタン・日本人材開発センター(JICA事業、2000年NPO法人設立)
 日本からの進出企業 16社 2014年4月時点
  駐在員事務所:伊藤忠商事、住友商事、丸紅、三井物産、三菱商事、豊田通商、
         日本電気、清水建設、日本交通技術、海外貨物運送、日本トランシス
         パナソニック、東電設計、
 在留法人: 126人(2012年10月1日現在)

日本からの開発援助

 2014年(有償資金協力)
  アムブハラ灌漑施設改修計画
  トゥラクルガン火力発電所建設計画
  タシケント熱伝併給所建設計画
  電力セクター能力強化計画
  ガス火力発電所建設(東部ナマンガン州)718億円
  高効率ガズタービン設備導入計画(タシケント市)120億円
 2014年(無償資金協力)
  人材育成奨学計画

日本との貿易

 日本からの輸出:120億円(日本総輸出額 697,742億円)
 日本からの輸入:99.6億円(日本総輸入額 812425億円)
 日本への輸出:金、アルミニウム塊(インゴット)、綿糸
 日本からの輸入:貨物自動車、原動機付きシャシー、ゴム製タイヤ、ガスタービン

Ⅸ. その他

◎ 連絡先
  • 日本ウズベキスタン・シルクロード財団 代表理事
    バヒリディノフ・マンスール様 TEL:03-6717-2829
  • ウズベキスタン共和国大使館 貿易経済担当 参事官
    アリシェル アブドゥサロモフ様
Shimada Sonjuku Study Trip to Uzbekistan