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島田村塾 活動記録 2014年7月 アゼルバイジャン訪問

Ⅰ. はじめに

島田村塾のアゼルバイジャン訪問もあと2ヶ月足らずになりました。2ヶ月という時間はすぐなので、このあたりで、いちど私達のアゼルバイジャン訪問の問題意識をしっかり共有する必要があると思います。その一助として、アゼルバイジャンをめぐる地政学的考察と題して以下の文章を書きました。しっかり読んで、皆で議論して共通の理解と問題意識を共有したいと思います。このペーパーはWSで使いますので、事前に熟読してきておいてください。

Ⅱ. 島田村塾のアゼルバイジャン訪問の内容

島田村塾は第一期生の第二年目の世界探訪PTとして2014年7月14日から20日までの7日間(往復含む)アゼルバイジャンを訪問することにしています。

アゼルバイジャンが面白いと最初に紹介してくださったのは元自民党政権時代に外務大臣政務官として国際関係の開拓に尽力された山中燁子先生(現在、Cambridge University Fellow)です。山中先生からはその後、在日アゼルバイジャン大使館のイズマイルザーデ大使を紹介して戴き、私達もそれなりにいろいろ勉強をしてきました。

アゼルバイジャンの滞在日程は7月15日から19日までの正味5日間となりますが、その大部分はアゼルバイジャンの首都バクーに滞在し、主要な大学、政策関連機関、産業機関や企業を訪問するほか、Central European University研究員の野村舞衣様の紹介で何人かのアゼルバイジャンの事業家などにお会いし、いろいろと意見交換する予定です。そして、その合間に、バクーの観光名所や世界遺産などの史跡を見学してアゼルバイジャンがその長い歴史の中で培ったこの地域における民族の文化遺産などに思いを馳せることにしています。

貴重な時間と費用を使って行うこのアゼルバイジャンの訪問を意義あるものとするために私達はそこから何を学ぶべきかについて大いに考え、問題意識をもってこのPTを実践すべきと思います。以下、そのためのひとつの手がかりとしてアゼルバイジャンをめぐる地政学的な要点を整理して示したいと思います。

Ⅲ. アゼルバイジャン訪問から何を学ぶか

アゼルバイジャンはロシアの南のコーカサス地域に位置する小さな国ですが、そのwritten historyは紀元前4ないし+世紀に存在したカフカース・アルバニア王国以来、3000年近い歴史があります。その大半はしかし、ペルシャ、アラブ、トルコ、モンゴル、そして近世以降はロシアの支配を受けて、多様な文化を吸収した独特な歴史を経験してきておりそれだけにアゼルバイジャンには多文化の共存、融合した遺跡、建築、生活様式などがのこっており、近年の急速な経済発展とともに観光地としても脚光を浴びています。

アゼルバイジャンと言っても日本ではまだほとんど知られておらず、普通は訪ねる機会のない国で、その意味では村塾が訪問する意義のひとつがあるでしょう。なぜなら村塾の世界探訪PTでは、通常訪ねる機会はないが、その訪問で大いに学ぶことのある地域や国を訪ねようということになっているからです。

ただ、訪ねる前にそれなりに充分な知識と問題意識を持たずに訪ねても、たしかに珍しい国で異文化のかおりを嗅ぐことはできるでしょうが、村塾生として8日間の時間と多額の費用を費やすだけの価値を得ることはできないように思います。

私はこの貴重に機会に村塾生がアゼルバイジャンを訪問して学ぶべきことの最大のテーマはアゼルバイジャンをめぐるユーラシア大陸の地政学的意味であろうと思います。その意味をしっかり学び、理解したうえでアゼルバイジャンを訪問すれば、この小国の経験を通して、ユーラシア大陸で近代から現代まで強大な支配力と影響力を行使してきているロシア(帝政ロシア、ソ連を継承する)が世界史の中で果たしてきた特有な政治、軍事、経済、社会的な役割の全体像があぶり出されてくることが判るでしょう。そしてそれは最近のウクライナ問題が世界や世界史に投げかけていることの意味を理解することにもつながるでしょう。いいかえれば、アゼルバイジャンをめぐる総合的な地政学的意味についての予備知識をもってアゼルバイジャンを訪問することは、私達にとってユーラシア大陸という地球上のそして世界史上の大変大きな領域について、その政治、軍事、経済、民族、文化などについて生きた勉強をすることができるということです。

Ⅳ. アゼルバイジャンの経験が示唆するユーラシアの地政学

アゼルバイジャンはどのような場所にあるでしょうか。地図(図表(1)(2)参照)を見るとアゼルバイジャンはカスピ海に面し、北に北コーカサス諸国、そしてさらに北にロシア、南には古代はペルシャという大国だったイラン、南西には近世までこの地域で覇権を握っていたオスマン帝国の一部を継承するトルコなどと国境を接しており、さらに直近の北にはグルジア、そしてすぐ西隣にはアルメニア、しかもアルメニアの領地、ナゴルノ・カラバフがアゼルバイジャンの中部に飛び地で存在しており、さらにアルメニアの南部にはアゼルバイジャンの飛び地の領地、ナヒチェバンが存在するという極めて複雑な位置にあります。

この地理的位置関係から、現在のアゼルバイジャンが古代から近代までペルシャ、アラブ、トルコ、ロシアの支配を受けてきたこと、また現在でもアルメニアなど隣国と険しい関係にあることなどが見てとれるでしょう。

アゼルバイジャンの今日の地政学を理解する基本は、アゼルバイジャンが帝政ロシア時代にはその領地であり、ソ連時代にはソヴィエト連邦を構成する15の民族共和国のひとつに位置づけられ、ソ連崩壊後の現代のロシア時代には、一応、独立しているが、同地の権益を最大限に支配かつ搾取したいロシアの獰猛な執念にさらされていることです。それはやはり旧ソ連邦を構成する同じ民族共和国の立場にあったウクライナやグルジアがプーチン政権の下でどのような目にあっているかを知ればすぐに分かることです。

アゼルバイジャンは現在、イルハム・アリエフ大統領のリーダーシップの下で、石油供給をテコに急速な発展を遂げており、世界の多くの国際会議などが集中的に開催されるいまや世界の注目国になっていますが、その根底には上記の地政学的な力学と歴史の怨念が根強くすべてを規定しているということに私達訪問者はしっかりと思いを至らさねばなりません。アゼルバイジャンの人々はおそらくそうしたことは私達に語らないでしょう。彼らの地政学的なトラウマやそれをギリギリの舵取りで回避し克服してきた経験はあまりに深刻で私達のような訪問者には容易に語れないことと思います。そうした意識下の心理構造をもつアゼルバイジャン人の思いや行動の意味を理解するために私達は彼らがおそらく決して語ることのないだろう地政学的、歴史的背景を良く勉強しておく必要があるのです。それでは、以下、やや詳しく、複雑な歴史と残酷な闘争の経験、そしてその背後にあって全てを規定してきてロシアという残忍な大国の意味について勉強していくことにしましょう。

Ⅴ. アゼルバイジャンの歴史と近年の発展

1. アゼルバイジャンの古代から近代までの略史

紀元前後には、現在のアゼルバイジャンのある地域には、アゼルバイジャン人の祖先と見られるアルバニア人の国家(カフカス・アルバニア王国)が作られていた。

歴史的には、イランの東アーザルバーイジャーン州、西アーザルバーイジャーン州とともに、イラン高原を支配する政権の統治下にあることが多かった。もともとはイラン系の人びとが住んでおり、南のイラン高原側とおなじくゾロアスター今日の拝火壇などの宗教施設が多数建立されていた。

7世紀にアラブの支配下に入ったのちも、住民にはゾロアスター教徒が多く、シーア派の信徒達も含めて、イスラム教への改宗は穏やかだったようだ。イスラム時代以降、この地域は、バクーより北側の地域がシルバーン地方、バクー周辺がグシュタースフィー地方、アラス川北岸の内陸部がアッラーン地方、クラ川とアラス川が合流する低地一帯がムーガーン地方と呼ばれていた。

セルジューク朝の時代(11〜13世紀)にオグズ・ティルク系遊牧民(ティルクメン)が進出してティルク・イスラム化が進んだ。特にイルハン朝時代は、ムーガーン地方周辺が南方のバグダッドと並んでイルハン朝君主達の冬営地に定められた地域でもあった。またイルハン朝滅亡後はカラコユンル朝やジョチ・ウルス系の諸政権の支配が及ばなかった集団の出入りがはげしく、これらテュルク・モンゴル系の遊牧勢力の浸透によって、これらの地域に住民のティルク化、イスラム化はさらに進展した。一時、ティムール朝の支配下にあったものの、イルハン朝滅亡後はこれらの地域を統括できる政治勢力はしばらく現れなかった。

17世紀にこの地方を拠点にサファヴィー朝が起こり、カスピ海南西岸地域一帯の多くのティルクメン系の人びとがシーア派に改宗して結果、アゼルバイジャン人(アゼリー人)と呼ばれる民族が形成されて行った。アラス川以北の現アゼルバイジャン共和国領は、元来イラン高原に属しウルーミーエ湖周辺のタブリーズやマラーゲを中心とするアーザル バイジャーン地方とは別個の地域であって、アゼルバイジャンとは呼ばれていtなかったが、南の東西アーザルバイジャーン州との民族的共通性から次第にアゼルバイジャンという地名で呼ばれるようになった。アルダビール州からカスピ海沿岸部にかけてはタリシュ人のタリシュ・ハン国(1747年〜1813年)が自治していた。

1804年に始まった第一次ロシア・ペルシャ戦争の講和条約「ゴレスターン条約(1813年)」でアゼルバイジャンの大部分がロシア帝国に編入された。1826年にはじまった第二次ロシア・ペルシャ戦争の講話条約「トルコマンチャーイ条約(1818年)」で、ガージャール朝ペルシャのアルス川北岸地域もロシア帝国に割譲された。

ロシアの統治下でアゼリー人の民族意識が高まった。1918年、この地域のアゼリー人民族主義者達は十月革命後の混乱を縫ってアゼルバイジャン民主共和国を打ち立てることに成功したが、イギリス軍によって占領され、このに反応した赤軍がバクーに侵攻、ソヴィエト政権が成立。1922年末、ザカフカース・ソヴィエト連邦j社会主義共和国の一部となり、同連邦の解体にともない、1936年よりアゼルバイジャン・ソヴィエト社会主義共和国としてソヴィエト連邦を構成する共和国のひとつになった。

 1989年10月5日、共和国宣言。
 1991年2月5日、「アゼルバイジャン共和国」に国名変更。
 1991年8月30日、共和国独立宣言。
 1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に参加

2. 首都バクーの略史

アゼルバイジャン共和国の首都、バクーはカスピ海西岸に突き出したアブシェロン半島南岸に位置し、市街はバクー湾に面してひろがった港町。11の行政区、48の町区から構成。2005年時点の人口は2,045,815人。アゼルバイジャン最大の都市、かつ南カフカ―ス有数の大都市。大規模は油田(バクー油田)を持ち、帝政ロシア時代から石油の生産地として発展してきた。

バクーの語源はペルシャ語で「吹き付ける風」の意という説が有力。気候は晴天が多く乾燥。寒気と暖気がぶつかって時折強風が吹き付ける、そんな気候が根拠か?海岸は美しく、市街地には温泉や鉱泉がある。

市街の中心はその南西部。イチェリ・シェヘル(Iceri Seher)すなわち「内城」と呼ばれる城壁に囲まれた旧市街と、帝政ロシア支配時代にその周囲に築かれた新市街から成る。その周囲には北から東にかけての平地から丘陵の斜面一帯にソヴィエト時代につくられた市街が広がっている。

バクーに定住者が存在した痕跡は紀元前のものもカッケんされているが、都市としてのバクーは5世紀頃に建設されたと推定。8世紀頃から記録が残っている。油田の存在は8世紀には知られている。

バクーは、12世紀にこの地方の中心であった内陸部の都市シェマハが地震で破壊されてから都市としての重要性を増し、シルバン・シャー朝の首都となり、港湾都市として栄えてきた。1501年のサファヴィー朝のイスマーイル1世の攻撃以来、度重なるイランの諸王朝の攻撃を受け、1604年のアッバース1世の軍勢によって城も破壊された。イラン支配の後は、ロシアの侵攻を受ける。1723年、ついにバクーはロシアの包囲に降伏。ロシアがザカフカジエへ膨張することに脅威を感じたアーガー・モハンマド・シャーも、1795年にバクーに侵攻して反撃。帝政ロシアとガージャール朝の角逐が繰り返される。翌1796年、エカチェリーナ2世の命を受けたロシア軍が侵攻、バクーに駐屯地設営。パーヴェル1世の治世になるとロシア軍は撤収するが、アレクサンドル1世はバクーに強い関心をしめし、再度侵攻。最終的には1813年のゴレスターン条約で、バクーとザカフカースはロシア帝国に併合された。

十月革命後、バクーはステパン・シャウミャンが主導するバクー・コミューンの支配下にハイリ、アルメニア革命連盟の支援を受けたボリシェヴィキは、多くのアゼリー人やイスラーム教徒を処刑した。1918年、誕生したばかりのザカフカース民主連邦共和国は早々に分裂。ギャンジャで独立を宣言したアゼルバイジャン民主共和国勢力が、オスマン帝国の支援を受けてバクーに侵攻。進駐していたイギリス軍やボリシェヴィキらは駆逐され、バクーはアゼルバイジャン民主共和国の首都となった。この過程で、1918年3月31日の衝突で、数千人のアルメニア人が報復で殺された。この日はアルメニアで「虐殺記念日」とされている。

1920年、赤軍がバクーに進駐。ここを首都とするアゼルバイジャン・ソヴィエト社会主義共和国が成立した。独ソ戦では、1942年、バクーの油田地帯を狙ってナチス・ドイツ軍が侵攻してきたが、スターリングラードの戦いに重点をおいた枢軸軍の敗北により頓挫した。ソ連末期、アゼルバイジャン領のナゴルノ・カラバフ自治州において、アルメニアへの帰属を求めるアルメニア人の民族運動が活発化すると、他民族都市バクーも民族紛争に巻込まれ、多くのアルメニア人がアルメニアに移住する一方、バクーには新たに多くのアゼルバイジャン人難民が流入してきた。

バクーの人口は多くの民族が侵入し、支配し、また共存してきた結果、極めて多様な民族構成になっている。ソ連時代はアルメニア人、ロシア人、ユダヤ人が多く居住する他民族都市だったが、シナゴーグは破壊し尽くされた。主にヘイダル・アリエフ政権下でシナゴーグの再建が進んだ。

今日のバクー市は、人口の90%をアゼルバイジャン人が占めている。宗教的には、人口の94%がイスラム教を信仰している。キリスト教は4%で、ロシア正教会、グルジア正教会、モロカン派などの信者である。ユダヤ人コミュニティーは小さいものがいくつか残りユダヤ教の信者はごく少数である。

3. 石油採掘と石油産業の発展
・石油産業の草創期

今日のアゼルバイジャンは石油を世界に供給することで、急速な発展を遂げている。石油輸出のおかげで、アゼルバイジャンのGDPはこの5年間で倍増したとされている。アゼルバイジャンという国名そのものが、”火の土地” という意味であり、それは古代から地層の浅いところに石油層があり、それが地上で炎をともしたことが語源であるとされ、20世紀初頭にはアゼルバイジャンは世界の石油の半分を産出してとされる。石油の採掘はバクーを拠点に行われたが、しかしその石油採掘の歴史、また石油供給の歴史もいくつかの大きな変遷を経て今日にいたっているので、まず、その歴史と地政学的意味について学んでおこう。

バクーでの石油の採取は紀元前より行われ、革袋に詰められてらくだでイランやイラクに運ばれたという。その石油は灯火用あるいは建物や船のモルタルに、あるいはミイラの防腐剤に使われた。初めは地表への湧出油を採取していたが9世紀には手掘りの井戸が掘られ、16世紀には石油産業の様相を呈した。1683年にスエーデン国王の命を受けたドイツ人医師ケンペルが訪れ、欧州人としてはじめてバクー油田を調査。1798年にBiBi-Heybat湾で世界初の海上生産が試みられた。アゼルバイジャンでバクーを中心に石油産業が発達したのは、19世紀はじめのロシア帝国編入後である。

19世紀なかば、米国で近代化された石油産業はバクーにも精油技術をもたらした。1929年時点で、82ヶ所の手掘りの立坑があったという。しかし、アゼルバイジャンはロシアの中央から遠く、またロシア帝国が独占事業として直轄支配したため汚職がはびこり、技術が低レベルのまま発展せず、事業の拡大も望めなかった。

・オイルバロンの時代

1872年にロシア帝国が石油産業の国家独占を廃止し、個人(民間)の参入を認めると、さまざまな企業が開発に乗り出す。1873年までに20余の小規模製油所も稼働をはじめた。やがて多くの石油バロン(石油王)が誕生する。そのなかにはノーベル家やロスチャイルド家、さらにロックフェラー家(スタンダードオイル)も含まれた。石油をヨーロッパに輸送するために、ノーベル家はカスピ海を水路で北上し、ロシアを鉄道で縦断するという「北ルート」をとったが、ロスチャイルド家はバクーからグルジアの黒海の港町バトゥミまで、石油を運ぶための鉄道を完成させ、西欧に破格の安値で石油を提供することに成功した。オイル・バロンには、アゼルバイジャン人、アルメニア人、ロシア人も含まれ、なかでもアゼルバイジャン人は潤沢な石油収入を社会に還元したとされる。

1898年にはバクーに230kmのパイプラインが敷かれていた。1901年時点では3000本以上の石油井戸があり、年間1100万トンが生産され、米国を上回って世界の石油産出量の半分をバクーが占め、Black Gold Capitalとして世界に知られていた。1925年、バクーからバツーミ(グルジア)までのパイプラインが完成し、1911年から使用開始したロータリー式掘削がこの頃には主流となった。

・ソ連時代

しかし、1917年のロシア革命で、オイル・バロン達の石油関連施設や財産のほとんどすべては接収され、オイル・バロンたちは亡命ないし殺され、石油生産はソ連政府の手に移った。ソ連時代にはバクー石油は大変重要視された。とくに第二次大戦中の対独戦争時にはバクーの石油があったからこそドイツに勝てたといわれている。バクー石油が品質が良く、精製なしでそのまま戦車に給油できたという話もある。

しかし、この時代にはバクーの石油は生産効率のみが追求され、無計画のまま短期間に大量の石油が採取された。やがて油井が荒廃し、多くの石油を地中に残しながら、油層の上層部にたまった水のために、それ以上の採掘ができなくなった。さらに地盤沈下や塩害が拡散するなどの弊害もおきた。その結果、1970年代以降、バクーの石油生産は細々と行われるだけになり、ソ連の石油生産の拠点はシベリアなどに移った。

まだ多くの石油資源が残存していたし、カスピ海でも石油が取れることがわかっていたが、当時、それらの石油を採掘する技術は欧米の石油会社にしかなく、とりわけカスピ海の石油・天然がス開発は、ソ連解体をまたねばならなかった。

・ソ連解体後の石油開発と国際的攻防。

ソ連解体後、欧米の石油大企業がカスピ海の石油に注目するようになり、石油をめぐる国際企業の攻防が展開する。

アゼルバイジャンでは、ソ連解体から現在まで、4人の大統領が存在した。その第二代大統領アブルファズ・エルチベイ政権は非常に民族主義的であり、親欧米・親トルコの一方、堅固な反ロシア・反イランの姿勢を貫き、とりわけロシアを徹底的に排除した。石油関連についても同様で、エルチベイ政権は欧米と石油開発の大型契約の準備をすすめていた。

旧ソ連地域での覇権を維持したいロシアとしては、アゼルバイジャンのこのような反抗的な姿勢を許容するわけにはいかなかった。そこで、ナゴルノ・カラバフ紛争においてアルメニアを徹底支援することで、アゼルバイジャンに懲罰を与えた。ロシアは紛争の調停のためにさまざまな条件を提示したが、その一環として、アゼルバイジャンにたいして、締結直前だったバクーの大型石油契約の交渉を仕切り直させ、ロシアを参加させるよう要求した。こうしてロシアを加える形で、1994年に、「世紀の契約」と呼ばれるバクー石油開発のさきがけとなる大型契約が締結された。アゼルバイジャンの領海における最大の油井「アゼリ」「チラグ」「グナシュリ」の生産分与契約だ。これをうけ、アゼルバイジャン国営石油公社と、イギリスのBP社が主導する多国籍のコンソーシアムである「アゼルバイジャン国際操業会社」が発足して石油生産が本格化した。

・パイプラインのルート問題

バクーからは、ソ連解体以前から二本のパイプラインPLが敷設されて稼働していた。ひとつはグルジアの黒海沿岸のスプサに通じる「バクー・スプサ(西ルート)」PL、もうひとつはロシアの黒海北部のノブォロシースクに通ずる「バクー・ノヴォロシースク(北ルート)」PL。この「バクー・ノヴォロシースク(北ルート)」PLはかつてはチェチェン域内を通過していた。しかしチェチェン人がパイプラインから石油を抜き取っていたことや、チェチェン紛争の激化で安全な輸送が保障されないことから、チェチェンを迂回する形で部分的に最建設された。

この既存の二本のPLは口径が細く、今後の大規模な開発によって産出する石油を輸送しきれないだろうと懸念された。さらに終着点はともに黒海沿岸であり、黒海から石油を外海に輸送するためにはボスポラス海峡を通過する必要があった。B海峡は南北約30km、幅はもっとも狭い地点で700m。そのためタンカーがつねに激しい渋滞を起こしており、事故による石油流出など環境問題も考えると、B海峡を経由しないルートが望まれた。そのため、既存のPLでなく新規に大量輸送可能なPLの建設が急務となった。

しかし、新規のPL建設は、ルート問題で紛糾した。どの国も自国通過を強く望んだ。エネルギー安全保障、通行料、国際的な発言力も高まるからだ。高度に政治的問題となった。バクー始点ルートで最も効率的で安全なのは、イランからペルシャ湾に向かうルートだ。これは距離も短く建設コストが安いうえ、コーカサス地域にくらべてイラン国内は治安が安定しており安全が確保できるからだ。多くの石油会社はこれを推したが、アメリカが絶対許さなかった。アメリカはイランとロシアを通過するルートには断固として反対した。アメリカは1979年のイラン・イスラーム革命と在テヘランのアメリカ大使館占拠・人質事件により、1980年4月以来イランと国交断絶しており、「ならず者国家」イランに資することは許さない。また、ロシアが旧ソ連・東欧地域に影響力を保持することを阻止し、逆にアメリカの影響力の拡大を志向していた。アメリカはこのルートが選択されるなら、アメリカ系石油企業を一切参加させない、という断固たる姿勢をとった。

・BTCパイプライン

そこで現実味を帯びてきたのが、バクー(アゼルバイジャン)、トビリシ(グルジア)、ジェイハン(トルコ)という非常に長い距離のPL計画だ。長いうえ、紛争地、地震多発地帯をとおるので、多くの石油会社は反対したが、アメリカの強硬な主張の結果、1999年11月のOSCE(欧州安全保障協力機構)のイスタンブールサミットでこの計画が採択された。アメリカのあまりに強い主張による計画だったので、”クリントン・プロジェクト”の異名もある。

ところで、ルートは決定しても、安全性や距離の問題で採算性が低いと見て、欧米の石油会社は建設に着手しようとしなかった。しかしアメリカのアフガニスタン攻撃後、2002年頃から石油価格が高騰しはじめ、採算が合う状況が生まれて来た。また中東依存が高かった石油の供給源を多角化する必要も意識されはじめ、イギリスのBP社が乗り気になり、アゼルバイジャン国営石油公社など8カ国、11社の参加でコンソーシアムが設立され、建設が開始された。日本からは伊藤忠が3.4%、国際石油開発が2.5%株式保有して参加している。

建設はこれまでのように陸上ではいろいろなリスクがあるので、地中埋設方式で地上は完全に復元。環境団体の反対や、遺跡発見など多くの困難を乗り越えて、2006年5月BTCパイプラインは全面開通した。2006年7月13日、アゼルバイジャン、グルジア、トルコの大統領が集まってジェイハンで開通式が賑やかに行われたがクリントン大統領の姿はなかった。これはクリントン大統領がロシアに配慮したもの、米国とロシア間でなんらかの取引が行われた結果と推測されている。

いまひとつ、海洋(湖)石油開発には、そこを海か湖と認識するかで大きく権益が異なるという法的地位の問題がかかわる。カスピ海を海ととらえるならば、油井が領海内にあれば石油採掘の収益はそこを領海とする国に帰属するが、湖と認識すればカスピ海を囲む5カ国で平等に分配されることになる。海を主張しているのはアゼルバイジャン、カザフスタン、ロシア。ロシアは当初湖を主張していたが、途中から海派になって分割を主張するようになった。トルクメニスタンは明確な立場をとっていない。現在のバクー沖の採掘は一環して海解釈を主張しているアゼルバイジャンの立場にのっとって行われている。

・アゼルバイジャンのオランダ病など弊害への懸念

アゼルバイジャンでは石油が輸出の8割も占め、石油関連以外への投資の慢性的な不足と不正や汚職の蔓延により、オランダ病発生の可能性が非常に高いと危惧。アゼルバイジャンの政府役人やエコノミストは、国家石油基金の経営の透明化と、農業生産品は石油関製品の輸出強化によってオランダ病は回避できるとするが、現政権は石油収入を国民の生活水準の向上に反映できておらず、貧富の差が拡大し、国民全体としての生活水準の低さは深刻だ。政府は最低賃金の引き上げや、雇用創出政策など貧困対策を行っているが、期待される効果はまだ見えていない。また高率のインフレも国民生活に深刻な影響を与えている。2006年1月にアゼルバイジャン通貨であるアゼルバイジャン・マナトを5000分の1に切り下げるデノミネーションを断行したが、これはインフレ傾向を助長する結果となった。環境問題への配慮もあるが、地域住民の健康や環境への悪影響も指摘されている。

4. ヘイダル・アリエフ大統領

ソ連解体から半年もしない1992年5月、旧共産党のエリートで、親ロシア的なアヤズ・ムタリボフ大統領がクーデターで失脚。その後、学者でアゼルバイジャン人民戦線の指導者だったアブルファズ・エルチベイが政権を取った。またグルジアでは1991年5月に、文学者だったズヴィアド・ガムサフルディアが初代大統領に就任。

二人は極端な民族主義政策を繰り広げ、それぞれ自国の民族紛争を煽ることになった。二人は当然、反ロシア外交を展開する。エルチベイはとくに反イラン的傾向やトルコとの連帯を強めた。そのためにロシアは未承認国家への支援を強化し、また停戦協定締結にあたって本国の独立を脅かすような受け入れ難い条件をつきつけられた。ガムサフルディアは1992年1月反対勢力との武力衝突などで失脚。エルチベイも1993年6月のロシアが支援するクーデターで失脚した。その後、両国では、それぞれソ連時代のエリートが大統領に就任する。アゼルバイジャンでは、ヘイダル・アリエフ、グルジアはエドアルド・シュワルナゼだ。

ヘイダル・アリエフはアゼルバイジャン国家安全保障局(KGB)で頭角を現し、1967年にはアゼルバイジャンKGB議長に就任。1969年、アゼルバイジャン共産党中央委員会第一書記に選出され、1982年までアゼルバイジャンのトップとして汚職の廃絶や経済活性化に注力。その手腕を買われて1982年にはソ連中央政界に進出。閣僚会議議長、首相第一代理就任、同時にソ連共産党中央委員会政治局員となった。こはムスリム出身者としては初の快挙。しかし1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフの腐敗廃絶運動のなかで1987年に政界から一時退いた。

その後、共産党を離党して故郷のナヒチェバンに帰郷していたアリエフは、1991年にナヒチェバン自治共和国の最高会議議長に選出されるとともに、ソ連から独立を宣言したアゼルバイジャンの最高議会副議長にも就任した。そして1993年、ナゴルノ・カラバフ紛争でアゼルバイジャンが混乱するなかでクーデターが起き、エルチベイは大統領の座を追われ、かわりにアリエフが国民投票で大統領に選出された。1998年10月の大統領選でも圧勝し、2003年まで2期10年を務めた。

アリエフは国内では反対派を弾圧して安定を維持する一方、ナゴルノ・カラバフ紛争停戦後、外資の導入によって石油・天然ガス産業の発展に尽力し、外交ではロシアと欧米の間でバランス外交を推進した。ただし、アリエフ一家が国内の重要産業を独占していることや民主化の遅れ、反対派に対する人権侵害などへの国際的批判は強かった。

1999年頃から健康を害し、2003年8月には息子のイルハムを後継者として首相に据えて引退した。2003年10月の大統領選挙ではイルハムが圧勝。ヘイダルは同年12月に死去したが、現在でもカリスマとして人気が高い。

Ⅵ. コーカサス地域で繰り返される紛争

アゼルバイジャンの位置するコーカサス地域は、ロシアの南に走るコーカサス山脈の南北にひろがる地域ですが、山脈の北側にはチェチェンなどいわゆる北コーカサス諸国があり、南側にはアゼルバイジャン、グルジア、アルメニアなど南コーカサス三国があります。

これらの国々はもともと帝政ロシアの領土でしたが、ソ連時代に、ソヴィエト連邦を構成する15の民族共和国として連邦体制の中に組み込まれました。これらの国々はそれぞれ長い歴史をもつ民族が営んできた伝統もあり、帝政ロシア崩壊に際して、独立を試みましたが、結局、ソヴィエト連邦に組み込まれ、それから70年後の、ゴルバチョフ時代のいわゆるペレストロイカ運動とソ連自体の解体の機を捉えて独立を試みました。

多くの民族共和国はそれなりの独立を勝ち得ましたが、旧ソ連邦の領土であった地域に対する支配と利権の確保を執拗にねらう現代ロシアの政治的圧力と工作の中で、これらの国々はその域内に対立国の領土を”未承認国家”として埋め込まれるなど苦渋に満ちた葛藤を余儀なくされています。最近のウクライナ情勢は、プーチン政権下に一層強化されたロシアのそうした戦略的企図の露顕といえますが、それはアゼルバイジャンを含むコーカサス諸国の経験の中にすでにまざまざと見いだすことができます。

ここではコーカサス諸国の紛争をつうじてのロシアとの残酷な葛藤の事例を三つほど提示したいと思います。ひとつはアゼルバイジャンのトラウマになっているナゴルノ・カラバフ紛争、二番目は、もっとも残酷な紛争として知られる北コーカサスのチェチェン紛争、そして最後に、グルジアが被った南オセティア紛争です。コーカサス諸国が巻込まれた紛争のさらに体系的はまとめは図表�に一覧が提示されていますので、参考にしてください。

1. ソヴィエト連邦の基本構造が紛争の根源
  • ソ連周辺国が巻込まれたこれらの紛争はいずれも歴史的淵源と民族的原因があるが、紛争が起こるその基本的理由としてソヴィエト連邦の制度的な基本構造を理解して置く必要がある。
  • 連邦を構成する共和国:ロシア、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンなど。
      主権国家:外交権も有する
      ソ連憲法によりソ連を脱退する権利も有する(ただし、実際には行使できない
      支配体制)
  • 自治共和国:チェチェンなど。
      自治共和国は各共和国に帰属。自治共和国は直接、ソ連邦を形成していないので、
      連邦からの離脱権もない。
      独自憲法、立法府(最高会議や閣僚会議)を持ち、予算策定、閣僚任免権あり。
      独自大学やメディアも持てる。
      インテリ、エリート層(共産党員、大学教員など)に”基幹民族”を積極的に登用。
      なお基幹民族とは自治単位を主として構成する民族。
  • 自治州:
      独自の憲法、国家行政的な機関、大学などもてず。
      自治権は基本的に文化面に限定。
      自治州当局(州ソヴィエト)は中央が決定した政策の地域での執行機関。

これらの自治権の相違は、当該地域の基幹民族が行使できる権力、権能の差を規定。

2. ナゴルノ・カラバフ紛争

 紛争:1989年1月〜91年12月
 戦争:1992年1月〜94年5月

  • ナゴルノ・カラバフ紛争の歴史的淵源
  • カラバフ紛争とは、アゼルバイジャン中央政府とカラバフ自治州の多数派であるアルメニア人の間での帰属や自治をめぐる対立であり、戦争に発展した。
  • 経緯:1918年にカフカース民主連邦が解体すると、アルメニアとアゼルバイジャンとの間で、国境線をめぐる対立が表面化し、戦争が勃発。

しかし、両国で、ボリシェヴィキ政権が誕生すると事態は急変。アゼルバイジャン共産党は、アルメニアにおけるボリシェヴィキ政権誕生を祝し、カラバフやナヒチェバンなど係争地をアルメニア領と認める意向を表明(だが、これはすぐ撤回)。1921年7月の共産党カフカース局総会でカラバフ問題が討議され、いったんはアルメニアへの帰属が決定。だが、翌日にはアゼルバイジャンへの帰属が決まった(スターリンの介入で覆されたとの説も)。結局、23年、カラバフはアゼルバイジャンの自治州に、また、24年にはナヒチェバンもその自治共和国になった。

背景の複雑さ。係争問題にロシア(モスクワ)とトルコが深く関係。ロシア・ボリシェヴィキ政権は、革命後に誕生したボリシェヴィキ政権の国際的な承認を得るため、また、コーカサスをめぐるトルコとの領土問題を解決するため、そして何よりも同地へのトルコの介入を防ぐため、トルコとの合意形成を目指した。その結果、トルコの要求を受け入れ、ナヒチェバンのアゼルバイジャンへの編入、またアルメニアおよびグルジアとトルコの国境の画定(アルメニア、グルジアからトルコへの領土割譲を含む)に合意した(モスクワ条約)。

アルメニアとアゼルバイジャンは、ソ連体制下では、当初、ザカフカース社会主義連邦を構成したため、カラバフについてはそれほど問題にならなかった。その後、連邦が解消され、対立がふたたび表面化。

アゼルバイジャン統治下のカラバフでは、アゼル人の入植進む。21年に5%が、89年には22%に。対照的に、約94%を占めたアルメニア人は、89年には77%に減少。アゼルバイジャンの同化政策(地域のアゼルバイジャン化)によりカラバフ地域のアルメニア人の政治、経済、文化的自治が侵食されたとアルメニア人は受け止め。

1960年代頃から対立が表面化。アルメニア人がカラバフのアルメニアかロシアへの帰属変更を求めて嘆願書提出にともないカラバフで暴力衝突。65年には、アルメニアでトルコによる「虐殺」50年記念式典。ここで、「未回収の地」カラバフへの認識高まり、デモなど。

・その後の展開

88年、カラバフのアルメニア人がアルメニアへの編入をソ連(モスクワ)指導部に求めたが、却下。回答への不満からエレバンで100人デモに発展。アルメニアへの帰属変更要求、あるいは、モスクワ直轄統治要求、それへの無効決議などカラバフをめぐるアルメニアとアゼルバイジャンとの決議の応酬過熱。

結局、連邦がカラバフの帰属変更を拒否したため、カラバフ州ソヴィエトは、単独でアルメニアへの帰属を発表。アゼルバイジャンは同地を封鎖して対応。この頃、アルメニアではカラバフの統合を求めるデモが過熱。ソ連軍や内務省部隊が鎮圧出動。アゼルバイジャンでもカラバフ統治の回復を求め、50万人規模のデモが行われるなど事態は悪化。この時期には、両国で民族主義組織(アゼルバイジャン人民戦線、アルメニア全国民運動)が形成され、両民族の武力衝突や排斥、虐殺事件などが発生。ソ連治安部隊が投入されたが、既にカラバフを中心に両国で30〜35万人の非難民が発生していたため、事態の収拾はすでに困難な状況。

89年1月、ソ連最高会議は、カラバフの地位はそのままに連邦直轄地とし、軍を派遣。これに対してアゼルバイジャン側は激しい抗議をしたので、11月にはソ連軍は駐留をつづけたが直轄統治は解除。90年1月、バクーでは、カラバフ問題にたいするソ連共産党への抗議デモがあり、この参加者の一部がアルメニア人を襲撃・殺害。ソ連指導部はこれにたいしてアゼルバイジャンに非常事態令を発し、ソ連軍の投入、人民戦線関係者の逮捕、メディアや重要施設を接収した。軍による鎮圧で、少なくとも100人以上の一般市民が殺害され、1000人以上が負傷した。ソ連軍の介入は一時的に民族紛争を抑制したが、アゼルバイジャンでは現地共産党も次第に人民戦線にすり寄る形となり、アゼルバイジャン独立への道を歩みだし、91年9月に独立を宣言。他方、アルメニアでは、現地の共産党は既に空洞化し、アルメニア全国民運動が最高会議で勝利し、独立運動が加速。アルメニアでは91年8月に独立宣言。91年9月のアゼルバイジャン独立宣言を受けて、カラバフは、9月に共和国創設を宣言。

・戦闘状態へ

12月には独立の是非を問う国民投票を実施。結果は、独立支持が99%。なお、アゼルバイジャン政府は11月にカラバフ自治州の廃止を決定。翌92年1月にカラバフが独立を宣言したことからアゼルバイジャンとカラバフとの間で軍事衝突がはじまり、これがアゼルバイジャン・アルメニア戦争に発展。アルメニアはロシアの関与と支援を得て、カラバフとその周辺を支配下に置くことに成功。カラバフはそのうえで、独立国を主張している。アゼルバイジャンは軍事的には敗北したが、その友好国トルコとともにアルメニア国境を封鎖している。この結果、資源を持たないアルメニアは、政治的にも経済的にも一層ロシアに依存せざるを得ない状況になっている。カラバフをめぐる問題についてはOSCEミンスク・グループ(米露仏が共同議長)など国際組織も和平交渉をはかっているが、現状は困難である。

・大統領の対応と民族紛争。

アゼルバイジャン初代大統領ムタリボフは、92年2月のカラバフ攻防の際、アゼル人の虐殺を防げなかったとして、人民戦線の激しい批判に晒され失脚した。新たに大頭領になったエルチベイは、交渉を排する強硬姿勢と反露・親トルコ的な外交が行き詰まり、辞任に追い込まれた。

一方、当初カラバフ問題に関する民族運動で台頭したアルメニア初代大統領テル・ペトロスィアンも、紛争による経済圧力から停戦交渉に導くが、これに拠って人々の支持をい、大統領選挙ではカラバフの元大頭領であり、強硬派のコチャリアンが勝利。

3. チェチェン紛争
・第一次チェチェン紛争(94年12月〜96年8月)

94年にロシアとチェチェンの間で発生して武力紛争は、連邦中央とドゥダーエフ体制下のチェチェン共和国の分離独立をめぐる対立だあった。

この対立はしばしば400年の歴史的起源をもつと言われる。それは帝政ロシアの南下とチェチェン人など諸民族の抵抗(16世紀カフカース戦争)から、革命・内戦期における独立闘争、ソ連体制下での強制移住なと苦難の歴史を経て、ソ連解体後の紛争に至るという理解。

1985年、ゴルバチョフのソ連共産党書記長就任を契機にペレストロイカ改革などを経てロシア、ソ連を取り巻く状況は一変した。ソ連を構成していた民族共和国では澎湃とくの政治団体が結成され民族運動が高まった。チェチェンではザウガーエフがはじめてチェチェン人として共産党第一書記に選ばれ、やがて共和国最高会議議長に就任した。これを契機に指導部のチェチェン人化が進む。

90年11月にチェチェン民族大会が開かれ、議長にはチェチェン人のソ連軍将校、ドゥダーエフが選ばれた。彼は91年3月ソ連軍を辞してチェチェンに戻り、国民各層に急速に影響力を拡大した。ドゥダーエフはおりしもモスクワで発生したソ連共産党保守派のクーデターを利用し、実力でチェチェン・イングーシ共和国のマスメディアや政府機関の一部を管理下に置き、大統領選挙と議会選挙を挙行。選挙の結果、大統領に選出されたドゥダーエフは改めて、チェチェンの独立を主張した。これに対してロシアは、チェチェンに非常事態を発令、治安維持のために内務省部隊を派遣したが、逆に彼らはチェチェン側に拘束されてしまう。

こうした混乱の中で、チェチェンからは住民の流出がつづいた。連邦統計局は1989〜95年の間に27万5千人が流出したとしている。その根底には雇用機会の減少がある。チェチェンは石油関連産業に依存した経済構造だが、ロシアからの原油輸送の停滞・減少で雇用機会が失われていいた。この状況を打開すべくチェチェンはロシアに交渉を要請したが、ドゥダーエフは交渉を議会が主導することを嫌い、多くの支持者の離脱を承知で大統領直轄統治を導入した。これがチェチェンの内紛を引き起した。

ロシアは内紛を利用して、93年12月にザヴガーエフが率いる親ロシア派チェチェン人勢力北部地域に結集させ、暫定評議会と設立、これを唯一正統な政治機構とした。ロシアが彼らを中心に勢力を結集し、94年11月に首都グローズヌイへの総攻撃をしかけた。これはロシア軍の支援もあり、大規模攻撃となったが、失敗した。ロシアはドゥダーエフに48時間以内の武装解除と捕虜の解放を要請。ドゥダーエフは捕虜の解放は受諾したが、武装解除は拒否した。ロシアは秩序回復、領土保全、ロシア市民の保護などを理由に、チェチェンに連邦軍・内務省軍を投入し、第一次チェチェン紛争がはじまった。

ソ連軍によるグローズヌイ陥落には3ヶ月も要し、双方の多くの犠牲が出た。ロシア側の計画がずさんであったこと、ロシアの経済混乱で訓練、武装が不十分だったこと、チェチェン側がソ連軍から引き継いだ武器を活用した、ソ連退役軍人はチェチェン指導部に居て指導した、住民の武装と抵抗の水準が高かったなどの背景があるが、グローズヌイ攻略作戦は多数の市民を巻込み多大な犠牲を生んだ凄惨な戦いとなった。紛争は都市から山岳、ゲリラ戦に進み、泥沼化した。1995年6月、バザーエフ野戦司令官がチェチェン北部近いロシア領内の病院を占拠する事件が発生した。ロシア側の特殊部隊による排除作戦は失敗。両者はOSCE(欧州安全保障協力機構)の仲介でようやく停戦に合意したが、ロシアは国民の政府批判が高まった。その間、ロシアはドゥダーエフの暗殺に成功し、後任となったヤンダルビエフとようやく停戦合意を結んだ。
これが第一次チェチェン紛争である。

・第二次チェチェン紛争(1999年9月〜2002年4月、2010年4月)

99年9月に勃発した紛争は、ロシア各地で頻発したアパート爆破事件をチェチェン人のテロと断定してロシアが、それまで両国で締結していた平和条約を逸脱して攻撃したことに端を発する。

第一次チェチェン紛争に結果、チェチェンは社会的にも経済的にも壊滅的な被害をうけ、国内は疲弊と混乱の極致に達していた。第一次紛争でチェチェンの支柱として活躍した野戦軍はいまやチェチェン各地で自己利益を追求する軍閥と化した。またイスラーム過激派の影響も増大していた。そんな中で、97年1月、大統領選挙が行われたが、国民が選んだのは、元ソ連軍大佐で独立派参謀もつとめたマスハドフだった。OSCEもロシアもこの選挙を公正で合法的とした。

マスハドフはチェチェンを独立国家としたうえで、ロシアとの間に共通の経済・軍事空間を形成するとした。これはチェチェンが自ら主権の制限を認めるのか、あるいはロシアと真に対等の関係を構築するのか、興味ある命題だが、その曖昧さを残しつつ、マスハドフ政権はロシアと金融、石油、運輸など多面にわたる協定をさだめ、石油をテコに世界から投資を誘致すべく活発な経済外交を展開した。しかし、経済構造と社会秩序が破壊されていたチェチェンには思うように資金は集まらず、またロシアが既定の予算を支給しなかった(金融危機でできなかった?)ため、経済は困窮した。反対派はマウハドフ暗殺を試みるなど政治も混乱した。マスハドフはイスラーム急進派を政権に取り込むが、これは急進派を正当化することにもなった。99年9月、バサーエフらが率いる部隊がダゲスタンの一部村落を制圧し、イスラーム共和国樹立を宣言するにいたる。

ロシアはこれを軍事的に制圧し、バサーエフは逃亡するが、その後、9月にダゲスタンでのアパート爆破事件を皮切りに、立て続けにモスクワでも爆破事件が発生する。就任したばかりのプーチン首相は、これらをチェチェン武装勢力による犯行と断定し、ハサヴユルト合意を破棄、9月22日、チェチェンへの攻撃を開始した。

前回の反省を生かしたロシア軍の攻撃は、まず空爆によって主要都市を徹底破壊したあとで、FSB・国防省、内務省の圧倒的な軍事力によって一挙にチェチェンを制圧するものだった。この無差別攻撃は市民に莫大な犠牲者を出したが、99年11月にはチェチェン第二の都市グデルメスの制圧に成功した。翌月には引退を表明したエリツィンに代わって、プーチン首相が大統領代行に就任、2000年の2月と3月にチェチェンを訪問し、ロシア軍の成功をアピールし、大統領選挙でも圧勝した。6月にはマスハドフと袂を分った宗教指導者カドィロフをチェチェン行政府長官に任命し、チェチェンの復興政策を開始。ロシアは2002年に「軍事的段階の終了」を宣言したあともイングーシのチェチェン難民キャンプを閉鎖し、また親ロシア派政権によるチェチェンの統治も強化した。

アメリカにおける同時多発テロ”9.11”は、ロシアに自らのチェチェン対策を正当化する機会を提供した。プーチンはチェチェン問題を世界的な「テロとの闘い」のひとつと言い募った。これによって交渉せずに独立派を排除する行為も正当化した。また安保理決議などを活用し、グルジアなどにチェチェン問題を通じて圧力を行使すること(チェチェンゲリラの潜伏地とされたグルジアのパンキシ渓谷への空爆など)も可能になった。

こうした政策に対し、チェチェンの急進的独立派バサーエフらは戦術をテロに切り替え、モスクワ劇場占拠事件(02年)、北オセティア・ベスラン学校占拠事件を起こしたといわれている。テロ戦術を批判し、交渉を訴えつづけたマスハドフは2005年、バサーエフも2006年には殺害され、主要な独立派指導者はいなくなった。現在は殺害されたカドィロフの息子、R.カドィロフがプーチン首相の支持を背景に共和国首長として絶対権力を握り、統治に当たっている。しかし彼の人権侵害行為や彼と対立する親ロシア派有力チェチェン人の排除、さらにメドヴェージェフ大統領の方針批判など、連邦も反発を強めているが他に人材が見当たらず、結局、2011年3月の選挙でも彼は再選された。

4. ロシア・グルジア戦争

南オセティア紛争(第一次:91年1月〜92年7月、第二次:08年8月7日〜16日)

南オセティア紛争とは、グルジアの南オセティア自治州の多数派・オセット人がグルジアからの分離とロシア連邦(北オセティア)への統合を掲げることで、グルジア中央政府との間で生じた紛争である。

1917年のロシアの2月、10月革命と帝政ロシアの崩壊にともなう混乱の中で、1917年12月にオセティア民族会議が設立され、この地域を支配していたグルジアに抵抗した。グルジアが民主共和国として独立しても、オセット人はその居住区を統合する行政府を求め、またロシアとの併合を求めていた。ロシアとグルジアは1920年に平和条約を締結しており、オセット人の抵抗にたいしてグルジアは忠誠を誓わないオセット人を排除して多くの犠牲者が出た。これはオセット人の間でトラウマになっている。1921年、グルジアが赤軍に占領されると状況は一変して、グルジア領内に南オセティア自治州(州都、ツヒンヴァリ)が設置され、南オセティアはグルジアの自治州となった。自治州は文化的自治権しかなく、ソ連体制下でグルジアへの同化が推進されたためオセット人の不満は蓄積していた。

1989年、グルジアでも他の共和国と同様、民族運動が盛んになり、アブハジアでグジア人とアブハズ人との衝突が発生し、また同年11月には南オセティア州ソヴィエトがグルジア領内での自治共和国への格上げを要求し、90年9月に主権共和国の設立を宣言したが、グルジア最高会議はこれを無効とした。この頃、急進的民族主義者、ガムサフルディアが最高会議議長に選出され、グルジアからの分離・ソ連への直接参加(主権共和国)をかかげる南オセティアに対し、91年1月、ガムサフルディア政権は5000人の民族防衛軍をツヒンヴァリに投入して紛争が勃発した。紛争の過程で、南オセティアのオセット人のほぼ総数が北オセティアに非難したとされる。南オセティアは、ロシアや北オセティア部隊の協力もあり次第に戦況を有利に展開するようになる。1992年に母国グルジアに戻り、国家評議会議長に選出されたエドアルド・シュワルナゼ元ソ連外相は、92年3月に紛争の停戦に合意した。

2001年11月の大統領選挙を境に状況は急変する。ロシア連邦のプーチン大統領からの支援も受けて、無名だったココィトイが大統領に選出されたが、ココィトイは急速にロシアに接近し、アプハジアとも連携してグルジアと激しく対立するようになる。プーチン政権も、南オセティア市民へのパスポートの支給、同地への予算や軍事支援を加速させたため、グルジアとロシアの間には緊張が高まった。サーカシュヴィリ政権も対抗的な処置を重ね、ついに2008年8月、ロシア・南オセティアとグルジアの戦争が勃発する。

世界が北京オリンピックに沸き立っていた2008年8月7日夕刻、旧南オセティア自治州に展開していたグルジア分は電撃作戦を実施し、州都ツヒンヴァリを”解放”した。8月はじめから緊張は高まっており、グルジア側はロシア軍が先に軍を南オセティアに向けて侵入させたので、これに対する自衛のための作戦だったとしているが真相は不明。コーカサス諸民族の保護者と自認するロシアは、グルジア軍の作戦を「大虐殺」と非難し、南オセティアに通じるロキ・トンネルから大軍を進軍させ、激戦の末、グルジア軍を南オセティアから撤退させた。

ロシアはグルジアへの懲罰的軍事行動をエスカレートさせ、軍事施設のみならず港湾などの社会インフラを空爆で破壊し、民間施設にも大きな被害が出た。地上部隊も紛争地域を越えてグルジア領奥深くまで侵攻した。スターリンの出身地としても有名な東西グルジアを結ぶ幹線上の要衝ゴリや、黒海に面するグルジアの重要な港ポチ、軍の大規模基地のある西部のセナキなどの戦略拠点を次々に占領し、施設やインフラの破壊作戦をつづけた。

戦闘はフランスのサルコジ大統領の仲介によって、8月12日に6原則に基づく停戦が成立した。しかし原則自体がどのようにでも解釈できる項目を含んでおり、さらに、8月26日にはロシアはアブハジアと南オセティアの国家承認に踏み切り、外交関係の樹立、軍駐留などの施策を矢継ぎ早に打ち出した。10月半ばまでにはグルジアからロシア軍が撤退することを約束はしたものの、「新冷戦」も辞さないとするロシアの強硬姿勢には国際的な懸念が強まっている。

グルジアとロシアの近年の紛争としてはもうひとつの未承認国としてのアブハジアをめぐるアブハジア紛争(1992年9月〜94年4月)があるが、ここでは、最近のロシア・グルジア戦争として象徴的な南オセティア紛争をとりあげ、アブハジア紛争は割愛する。

Ⅶ. 帝政ロシア、ソ連、ロシアの支配と周辺諸国の苦悩と葛藤

以上に見て来たような残酷で悲惨な紛争の歴史は、実は、近代から現代にかけてこれらの諸国を支配してきたユーラシア大陸の大国であるロシアの存在と行動様式そのものから派生してきているものである。したがって、これら周辺諸国が陥れられ、巻込まれてきた地政学的な運命と経験の意味を理解するには、帝政ロシア、ソヴィエト連邦、現代ロシアのあり方、とりわけそれぞれの崩壊と再編成の過程で何が行われ、何が意図されてきたかを知る必要がある。以下、そうした観点から、帝政ロシアの崩壊とソヴィエト連邦の形成、そしてソ連の解体といった重要な歴史の転換点が周辺諸国にどのような問題と経験を強いたかを学ぶ事にしよう。

1. ソヴィエト権力の樹立
・2月革命

1914年夏にはじまった第一次世界大戦は、やがて長期化し、総力戦となった。交戦国のなかでは相対的に後進国であったロシア帝国では、軍事的な危機に加え、物資の輸送が麻痺状態になり、都市の食糧事情が悪化したことなどから、国民の間に厭戦気分が広がり、1917年2月23日、の国際婦人デーに首都ペトログラードで女性労働者がパンを求めてストとデモを行ったことが端緒になってストとデモは数日のうちに全市に広がった。皇帝ニコライ二世はデモの鎮圧を命じ、デモ隊に多くの死者が出たが、やがて鎮圧にあたる軍隊からデモ隊側につく部隊が出始め、事態は革命情勢となった。

ロシア帝国では1905年の革命の結果、選挙制の国会が開設されており、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキなど複数の政党が初期的な活動をしていたが、政党のいくつかが事態収拾に動いて1971年3月2日に臨時政府を組織した。この時までには、革命の動きはモスクワや他の地方に広まっており、ニコライ二世は退位を余儀なくされ、帝政は倒れた。

・10月革命

この過程で、1905年革命時に設立されて重要な役割を果たしたソヴィエト(会議という意味だが、革命運動の拠点ととらえられるようになっていた)が労働者、兵士、農民の間で再び組織されて行き、支持を広げていた。首都ペトログラードではソヴィエトと臨時政府との二重権力状態が生まれつつあったが、ソヴィエトは条件付きで臨時政府を承認した。しかし、国民にも兵士にも厭戦気分が強かったにもかかわらず臨時政府が戦争を継続したことから、1917年4月には臨時政府への不満が強まり、臨時政府は危機に直面した。労働者、農民などの運動は激しさを増し、「すべての権力をソヴィエトに」との主張が勢いを増した。臨時政府によって17年7月には厳しく弾圧されたにもかかわらず指導者レーニンがソヴィエト権力樹立を訴えていたボリシェヴィキに対する支持が民衆の間に広がった。

この様子をみてレーニンは武装蜂起で臨時政府を倒して権力を掌握することを主張しはじめた。ボリシェヴィキ内には異論もあったが、17年10月12日、ペトログラードソヴィエトに軍事革命委員会が設置され、軍への影響を強めていった。臨時政府は先手を打ち、10月23日から24日にかけて軍事革命委員会指導者の逮捕やボリシェヴィキの印刷所の接収を命じたが、軍事革命委員会が反撃し、1917年10月25日、軍事革命委員会は、臨時政府を打倒して権力を掌握したことを宣言した(10月革命)。

2. ソヴィエト政権の直面した内戦と干渉戦争。

ソヴィエト権力樹立宣言とともに、全ロシア・ソヴィエト大会は農民の支持を得るために「土地に関する布告」、またすべての交戦国に「平和に関する布告」を発した。後者は、即時の停戦、無併合、無償金、民族自決を原則とする講話をよびかけたものだが、戦争を権益獲得の手段と見る当時の帝国主義時代の国際常識に反していたため、ほぼ黙殺されたが、ロシアの最大の敵であったドイツはソヴィエト政権による休戦の申し入れに応じた。しかしドイツは「平和に関する布告」の原則に応ずる気はなく事実上の領土の割譲を要求した。このドイツとの講話をめぐってソヴィエト政権内では激しい対立が起こった。休戦はするが講話条約には応じないとするソヴィエト政権に対し、ドイツは戦闘再開を通告し戦闘を再開した。このためソヴィエト政権は1918年3月にドイツおよびどの同盟国との講和条約締結を余儀なくされ、結局、当初案より多くの領土を割譲された。

この講和条約にともない、第一次大戦中にロシアに降伏していたチェコスロバキア軍団をシベリアから欧州に移送する際に、彼らが反乱を起こし、これをきっかけに反革命勢力との間に内戦がひろがった。これを見て、欧米諸国や日本がチェコスロバキア軍団の救出などを名目に反革命勢力を支援し、干渉戦争を開始した。これはソヴィエト政権が自ら招いた結果でもあった。なぜなら、総力戦をつづける連合国に対して、ドイツと単独講和をしたことは裏切りであり、また、ソヴィエト政権は帝政時代に債務の不履行を宣言し、世界革命を訴えて各国の労働者に政権打倒の呼びかけを続けていたのであり、連合国がソヴィエト政権を打倒しようとしたことは当然だった。結果として、ソヴィエト政権は内戦と干渉戦争をかろうじて生き延びたが、大いに疲弊した状態で、そして資本主義諸国に包囲された状況で国の立て直しと社会主義建設にただ一国で取り組まなければならなかった。

3. ソヴィエト連邦の成立。

十月革命から内戦に至る過程で、旧ロシア帝国領だったフィンランド、ポーランド、エストニア、リトアニアなどが独立し、また旧帝国領内各地にソヴィエト共和国が樹立されていた。

ソヴィエト共和国のいくつかは自治共和国や自治州としてロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国に統合されていき、その他のソヴィエト共和国にもロシア共産党が影響力を持っていたが、共和国側の自立志向も強かった。ロシア共産党が民族自決を訴えていたこともあって一連の共和国の統合は難しい政治課題になった。

この課題をめぐって、各ソヴィエト共和国を自治共和国としてロシア連邦共和国に組み込む「自治化案」を採る書記長スターリンに対し、対等な共和国の結合を求める療養中のレーニンとの”最後の闘争”があったが、結局、明確な結着を見ないまま、1922年12月、ロシア連邦、ウクライナ、ベロルシア、ザカフカース連邦(ザカフカースに位置するグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの三共和国で構成)によってソヴィエト社会主義共和国連邦が形成された。

1924年からは、ロシア連邦に統合されていた中央アジアの「民族的境界画定」が開始され、革命前からの政治・行政上の境界線と全廃して、カザフ・ウズベク・トルクメン・キルギス・タジクという民族別の社会主義ソヴィエト共和国が編成されていった。この「民族的境界画定」によって現在に至るまでの中央アジア諸国の枠組みがつくられ、その枠組みでの民族意識が醸成されることになったのであり、そのため、これは中央アジアにおける「第二の革命」とも呼ばれる。これによってソヴィエト連邦の枠組みも基本的に固まった。

ソヴィエト連邦は平等な共和国によって自発的に結成された連邦とされた。この原則はソ連の存在する基幹をつうじて公式には放棄されることはなく、1936年制定のソ連憲法にも、1977年採択のソ連憲法にも、共和国は連邦から離脱する権利を有することが明記されていた。1977年の憲法制定をめぐる全人民討議では、共和国と自治共和国を廃止するか、共和国の主権を制限し、連邦から脱退する権利を剥奪するよう求める提案もなされたが「正しくない結論」として退けられたのである。

しかし、こうした原則は、連邦の実態とは一致していなかった。すべての共和国において政治権力を独占していた共産党の組織は全連邦で単一とされ、各共和国の党は全連邦の支部と位置づけられた。そして共産党は、「民主集中制」と呼ばれる組織原則(自由な議論は許されるが、上位機関の下した決定には下位機関は完全に従属するという原則)を有していたから共和国の党は連邦の党に従属する存在だった。ここから、連邦と共和国との間にも支配と従属の関係が生じたのであり、「平等な共和国による連邦」は実質を伴わなかったのである。

そして、共和国のなかでは領土でも人口でもロシアが圧倒的に大きく、しかもソ連の歴史の大部分の時期においてロシア独自の共産党は存在せず、ロシアの党組織は連邦の党組織と分ち難く一体化していたという意味で(ロシア共産党が全連邦共産党、次いでソ連共産党となったのであり、共和国の共産党としてロシア共産党が結成されたのは1990年のことだった)、この連邦はまさにロシアを中心とした連邦だった。

それでも各共和国はあくまで国家と位置づけられ、政治的にはともかく行政においては実質的な役割を果たしていくのであり、そのことが、1991年に共和国が主体となっての連邦解体が実現し、共和国が名実ともに主権国家となって存立していくうえで大きな意味をもった。

こうして、共和国による連邦制と、共和国内に自治共和国や自治州を設ける領域自治とを採用したことでソヴィエト政権は、ロシア帝国領の多くを統合した一方で、「諸民族の牢獄」と非難されることもあったロシア帝国の支配から、民族自決の旗印のもとに諸民族を解放したかに見えた。このことは、十月革命以来、ボリシェヴィキが民族自決を訴えてことと併せて、皮肉にも、ロシアのみならず世界各地の植民地統治下の諸民族の独立運動を精神的に鼓舞したのである。

4. ソ連、集権的な体制づくり

第一次大戦は総力戦になったため、各国で国家機構が肥大したが、ソ連ではボリシェヴィキ(1918年にロシア共産党、1925年に全連邦共産党、1952年にソ連共産党と改称)の集権的な一党支配体制が成立した。他の政党は、1918年にメンシェヴィキやエステルは非合法化されるなどしてすでに一党制が成立していた。

・党の国家化

1920年代末から1930年代初頭の穀物調達の「非常措置」と全面的農業集団化を進める過程で共産党は、統治と計画遂行に直接の責任を有する地方機関を備えた組織になっていった。それと同時に党機関は国家機関と癒着していき、時に国家機関の機能と職務を代行するようにさえなった。「党の国家化」と言われる現象であり、これこそが一党支配を強固なものとし、ソ連の政治体制の最大の特徴になった。

・共和国に対する連邦中央支配

共和国に対する連邦中央支配も強化された。1920年代には、各共和国で現地民族の指導者を育成し共和国指導部に据える「現地化」と言われる政策が進められていたが、1930年代には、これが撤回された。現地民族からなる共和国指導部がモスクワから派遣された人物によって批判され、更迭されていった。こうしてソ連は、連邦制をとりつつ実際には中央集権的な国家になっていった。

・スターリンの独裁支配化

1924年にレーニンが死去したのちの権力闘争を経て1930年代にはスターリンの独裁が実現していく。書記長として党の人事を握るスターリンは権力闘争で有利な立場にあったが、戦術も巧みだった。スターリンはまず、レーニンに匹敵する能力と威信をもっていたとされるトロッキーを、より古参の幹部であったジノヴィエフ、カーメネフらと結んで排除し、ついで、レーニンが「党の寵児」と評したブハーリンと結んで、ジノヴィエフ、カーメネフらを排除し、最後にブハーリンらを排除して、独裁的な地位を固めていった。

・スターリンの大テロル

1936〜38年には第一〜三次のモスクワ裁判など、かつては党と政府の最高幹部であった人々を被告とする「見せ物裁判」が開かれ、被告全員が有罪とされた。軍の最高幹部たちも軍事裁判にかけられて処刑された。1937年8月からは国民全般を対象とする大量弾圧(大テロル)がはじめられていく。

大テロルはスターリンの命令により、その監督下で実施されたとされる。スターリンらが大テロルに踏み切った主な目的は、幹部職員の大幅な入れ替えと、戦争前夜における潜在的な敵・内通者(「第五列」)の一掃だったとされる。犠牲者の多数は一般の人々。政権に不満をもっていると疑われた人々が次々に第五列とされ弾圧の対象になった。

1934年1月から1939年3月までに党と国家の指導的ポストに50万人以上が新たに登用されたとスターリンは述べている。これほど大規模な古参幹部の排除と新人の登用はスターリン個人の立場と権力を強化した。この50万人という数字は、第五列など粛正された人々の数の約1割程度と推察される。テロルはそれほど大規模は弾圧だった。

スターリンは1953年3月5日に脳発作で倒れて帰らぬ人となったが、その直前には、古参政治局員らを含むさらなる大規模なテロルを企んでいるとされ、多くのひとびとを疑心暗鬼の不安に陥れていた。

・コミンテルン

ソヴィエト政権は世界革命に生き残りを賭けていたことから、諸国の共産主義者に働きかけ、共産主義インターナショナル(第三インターナショナル、コミンテルン)を1919年3月に創設した。コミンテルンはモスクワに本部が置かれ、各国の共産党や革命運動を支援した。運営経費などのすべてをロシア・ソ連が負担していた。

創設当初のコミンテルンは、ドイツ革命の実現をめざしたが、ドイツではやがて革命情勢が遠のいたため、社会民主主義者を含む労働者の統一戦線形成に方針を転換した。その一方で、コミンテルンへのロシア共産党の影響力が次第に強められ、やがてコミンテルンは事実上、ソ連外交の「道具」や「手段」と化していった。

5. スターリン批判

ニキータ・フルシチョフソ連共産党書記長によるスターリン批判はソ連政治の重要な一転機を画するもので、ここに敢えて節をあらためて触れることにしたい。

1956年2月に開催されたスターリン死後初めての大会となる第20回党大会は、新指導部の下での変化を示した。大会では政治と社会の民主化、西側との平和共存の可能性(スターリンが主張しつづけた戦争不可避論の事実上の否定)などが謳われ、大会最終日、1956年2月25日の非公開会議で、フルシチョフによるスターリン批判が行われた。スターリンの下で行われた犯罪的行為を暴露し、それはスターリン個人のせい、スターリンに対する個人崇拝のせいで生じたと批判した。

スターリン批判は、ソ連の圧力を背景に社会主義陣営を形成し「小スターリン」的な指導者が統治していた東欧諸国にも大きな衝撃をあたえた。スターリンと個人崇拝に対する批判という枠を超えて、ソ連の体制自体を批判する動きも各地に見られた。それらはいずれも散発的で小規模なものではあったが指導部を警戒させた。

6. 規律引き締めから「ペレストロイカ(立て直し)」へ

ゴルバチョフ共産党書記長による”ペレストロイカ(立て直し)”と”グラスノスチ(情報開示)”の推進は、実は、ソ連解体の序曲となった。これは周辺諸国の多くが解放とまがりなりにも独立を勝ち取る契機となるもので、極めて重要な歴史の転換点を画すもので、重要項目としてここで解説しておきたい。

1982年11月、ブレジネフが死去し、アンドロポフが党書記長になると、労働規律と社会規律の引き締めが図られた。アンドロポフは、5ヶ年計画が二期つづけて達成されなかったことを重視し、農業担当書記だったゴルバチョフを重用して食糧問題対策に取り組ませるなど改善に務めた。しかし70歳で書記長に就任し、病に冒されていたアンドロポフは1984年2月に死去。より年長のチェルネンコが書記長になったが1年ほどでこの世を去った。

1985年3月にチェルネンコの後任として党書記長になったゴルバチョフは、状況は深刻であり、そうした危機的な状況の中で、「社会主義の成果」を喧伝することは国民の不満を強めるだけ、に気づいたという。

1986年4月にチェルノブイリ原発事故が起こり、事故も危機管理の情報公開が不適切であったことが明らかになり、「グラスノスチ(情報開示)」がの必要が認識され、体制のあり方そのものが問題視された。ゴルバチョフは「ペレストロイカ」を経済だけでなく政治、社会、精神、イデオロギー、働き方などすべてにおいて、革命と同様にペレストロイカが必要と訴えた。

1988年、従来のソ連最高会議に代えて、ソ連人民代表大会とそこで選出される常設の最高会議という二階建ての議会を設置することが決まり、1989年3月に「すべての権力をソヴィエトに」というスローガンの下、人民代議員の選挙が行われた。このスローガンは常に叫ばれてきたものだが、ソ連共産党が確立して以降の半世紀は、ソヴィエトすなわち議会と言っても、共産党の指導が大前提であり、共産党指導部を批判することはできなかったから、ペレストロイカ期のこのスローガンはレーニンが唱えた思想の原点に回帰するものとも言える。そして、1990年3月にソ連憲法第6条が改正され、「共産党の指導的役割」の規定が削除された。

これによって複数政党制が名実ともに実現し、同時に大統領制が導入されて、ゴルバチョフが初代のソ連大統領に選出された。以後、ゴルバチョフは党書記長よりも大統領として活動することが期待されたが、新設の大統領を支える国家機構はまだ充分整備されておらず、他方で、全国隅々まで党組織をもつ共産党の力と役割はなお大きく、ゴルバチョフは改革派と保守派の間で難しいバランスをとることを強いられた。

・「新思考外交」

1970〜80年代の西側諸国との経済競争に敗れたとはいえ、ソ連には軍需産業を中心に工業力はあり、これを活用してインフラの整備を進め、また福祉規模は膨大になっていた。こうした国内負担をかかえて国際緊張の中で西側諸国に対峙する国力のゆとりはないという自覚のもとで、ゴルバチョフは「新思考外交」を唱えた。

新思考外交につながる核実験の一方的停止、欧州配備の中距離核戦力の全廃の提案などはゴルバチョフの「新思考」への信頼を高め、米ソの緊張緩和が進展した。「新思考」は全方位でアフガンからの撤退、中国との関係改善、韓国との国交回復、そして東側陣営の東欧諸国に改革を促すとともにソ連の介入はないと約束した結果、1989年夏から年末にかけて各国で体制変換が相次ぐ「東欧革命」の連鎖反応が起きた。こうして、1989年12月には米ソ首脳により「冷戦終結」が確認された。冷戦終結への役割が評価されて、ゴルバチョフは1990年にノーベル平和賞を授与された。

しかし、新思考外交の結末はゴルバチョフとソ連にとって厳しいものとなった。東側陣営が事実上崩壊したうえ、1990年には東ドイツが西ドイツに併合される形で統一されたことは「冷戦に敗北した」と受け止められ、1991年にはソ連自体が解体されることになったからである。

7. ソ連解体

多民族の連邦国家であったソ連は1991年後半に、連邦を構成していた15の「民族共和国」へと解体された。ペレストロイカの結果、経済が混乱し、生活が悪化し、情報公開が進み、一定の政治的自由が承認されたこともあって、潜在的に存在していた民族的な緊張や対立が表面化し、問題が各地で噴出したのである。

民族問題は、主に、「連邦対共和国」「共和国対共和国」という構図。後者の対立では「調停役」としての連邦への期待も見られた。たとえば、アゼルバイジャン共和国のナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア共和国への移管を求める動きがきっかけで、アルメニア人とアゼルバイジャン人が対立し、武力紛争となった件では、アルメニア側には、連邦が紛争を調停し移管を実現してくれるとの期待があったが、これが叶えられなかったため、アルメニア人の間に連邦への失望と幻滅が広がり、連邦からの独立論が高まったとの指摘もある。

1988年11月、バルト三国の一角、エストニア共和国最高会議は主権宣言を採択するとともに共和国憲法の改正を決定し、連邦の法令は共和国最高会議の批准によって効力を発すると定めた。ソ連最高会議幹部会はこの決定は連邦憲法に違反し無効であると宣言したが、よく1989年にはリトアニアとラトヴィアも主権宣言を採択した。この年の12月に連邦の最高権力機関であるソ連人民代議員大会が、それまで存在しないとされてきた独ソ不可侵条約付属秘密議定書の存在を確認して非難したことは、バルト三国のソ連加入自体の正当性と合法性を疑わしいものにした。バルト三国は1990年には独立を宣言するに至った。

しかし、これで独立が達成されたわけではない。最も急進的なリトアニアに対して、ゴルバチョフは独立宣言取り消しを求め、拒否されると経済封鎖に踏み切った。1991年1月にはリトアニアとラトビアで連邦の治安部隊と独立派市民達が衝突する事件が起こった。

他の共和国でも同種の憲法改正や主権宣言が次々となされて行き、1990年には連邦の中心的存在であるロシア共和国までが主権宣言を発するにいたった。主権宣言は連邦の存在を一応、前提にしていたが、連邦法に対する共和国法の優位が主張され、「法の戦争」とまで呼ばれる状況は市場経済化への取り組みにも混乱と困難を増大した。ゴルバチョフは「新連邦条約」の締結によって連邦と維持しつつ共和国との関係を整序することを目指したが、結局、連邦中央はその存立基盤を掘り崩されて国家連合的な性格を余儀なくされていく。

1991年3月17日、連邦の維持をめぐる国民投票が、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、アゼルバイジャンの9共和国で実施され(独立をめざすバルト三国とグルジア、モルダヴィアはボイコット)、いずれの共和国でも賛成多数、全体では76%が連邦の維持に賛成票を投じた。この結果は連邦維持をめざすゴルバチョフには得点になった。

これを受けて、1991年4月には、連邦の権限を大きく削減することで「9プラス1(投票9共和国首脳プラス連邦首脳)合意」が実現したが、ゴルバチョフの譲歩は連邦の政府と議会の了承を得ないものだったので、不満と危機感を抱いた連邦の副大統領、首相、国防相らがゴルバチョフを拘束し、8/19に「国家非常事態委員会」を組織するクーデター(8月クーデター)を起こした。国民の多くはこのクーデターがペレストロイカ以前への回帰を目指すものとして反発。モスクワではロシア共和国大統領であったエリツィンらが共和国最高会議ビルを拠点としてクーデターに徹底抗戦する姿勢を示し、市民の支持を得、クーデターは3日で失敗した。エリツィンは共産党の活動を停止させ、ゴルバチョフも党書記長を辞任して、党中央委員会に解散を勧告。共産党の政治的力は失われた。8月クーデターで、「新連邦条約」の調印は流れた。ゴルバチョフはなお調印への努力をつづけたが、1991年12月、ウクライナの国民投票で独立をもとめる票が9割を超えたため、ウクライナなしの連邦はあり得ないとの立場を堅持していたゴルバチョフの努力はここで終結を余儀なくされた。

1991年12月8日、1922年の連邦結成条約に調印した4者のうち3者、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの首脳が会談し、1922年の連邦条約の無効と独立国家共同体(CIS)の創設を宣言。12月21日には、バルト三国とグルジアを除く11カ国がCIS結成で合意。12月25日にはゴルバチョフがソ連大統領の職務停止を宣言するテレビ演説を行い、ソ連という国家は、連邦を構成していた共和国に解体される形で消滅した。

8. 連邦解体後の旧ソ連諸国

旧ソ連諸国のその後の展開はさまざまだった。バルト三国のようにヨーロッパ連合に加入した国々がある一方、経済停滞に苦しむ国、ソ連時代に匹敵する抑圧的な体制をなっている国など多様で、旧ソ連諸国における体制転換は必ずしも“民主化”ではなかった。21世紀に入ってウクライナやグルジアが経験した「色の革命」も民主化、自由化と言われたが、必ずしも実態が伴わない面もある。

・未承認国家問題

未承認国家と呼ばれる地域は、アゼルバイジャン国内の「ナゴルノ・カラバフ共和国」、グルジア国内の「アブハジア共和国」「南オセチア共和国」、モルドヴァ共和国内の「沿ドニエストル共和国」であり、国名は自称である。

ロシアはこれらの未承認国家を軍事的、政治的に支援してきたが、その真の独立やロシアへの併合を望んでいるとは思えない。むしろ未承認国家問題を利用して、親ロシアとはいえない「本国」を支配下におき、旧ソ連地域の自国の勢力圏として維持しつづけることが最大の目的であると考えられる。(広瀬41)

・GUAMー親欧米的な諸国の連帯

ロシアは帝政時代からソ連時代、ソ連解体後も、南北コーカサスに対してはこれを自国の“裏庭”として扱ってきた。

チェチェンで紛争が起こる以前の1993年、アゼルバイジャンとグルジアはそれぞれ自国内での紛争を停戦に導くことに見返りとして、CIS やCIS集団安全保障条約機構に加盟させられていた(グルジアはそれまで未加盟、アゼルバイジャンは一度加盟したが、エルチベイ時代に脱退)。1996年の第一次チェチェン紛争でロシアが敗北したことにより、南コーカサスはロシアへ強気の姿勢を示すようになった。

紛争が終了した1996年、グルジアとアゼルバイジャンは、モルドヴァとウクライナを巻込んで新たな協力組織をつくるとの共同声明を発表。1997年、ストラスブールで開かれた欧州評議会でGUAM(グルジア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドヴァ)が結成された。これは石油PTの協力推進や主権尊重、領土保全などを掲げる地域の経済政治協力組織だった。しかし、加盟国がCIS集団安保条約機構からの脱退国や未加盟国だることもあり、GUAMは国際的に反ロシア的で軍事的性格を帯びた組織とみなされるようになり、ロシアやイランの強大化をおそれる欧米、とりわけアメリカから強い支援を得るようになった。

9. 「色革命」ーバラ革命、オレンジ革命、チューリップ革命

「色革命」とは旧ソ連諸国において民衆が既存の政権を倒して一気にすすめた無血の「革命」のこと。具体的にはグルジアの「バラ革命」、2004年のウクライナの「オレンジ革命」、2005年のキルギスタンの「チューリップ革命」。これらの革命は“ドミノ”とも評されたが、実際にはドミノ現象は起きていない。

「バラ革命」:1995年以降、シュワルナゼ政権がつづいていたが、旧共産党のエリートを中心に構成されていた政権の内部では腐敗がすすんでいた。2003年11月議会選挙が非民主的なものだったことが露顕し、アメリカ政府やソロス財団らから支援をうけた野党の若手政治家や支持者達が大統領の辞任を要求して運動を起こした。11月22日、非暴力の象徴としてバラの花を手にした人々が国会議場を占拠し、シュワルナゼは逃亡。この政変が「バラ革命」と呼ばれた。36歳の若さで大統領に就任したミハエル・サアカシュヴィリを筆頭に若手で構成された新政権はEUやNATOへの加盟をめざすなど欧米型の発展をめざしている。

「バラ革命」「オレンジ革命」「チューリップ革命」に共通しているのは、非暴力であり、また旧政権幹部や若手エリートによる反体制運動という点である。

グルジアの「革命」の指導者3人はかつてはシュワルナゼの側近ともいえる人々。サアカシュヴィリはシュワルナゼ政権の法務大臣だったし、ニノ・ブルジャナゼは国会議長、ズラブ・ジュヴァニは前議長だった。

ウクライナ「革命」の指導者となったユーシチェンコは、レオニード・クチマ大統領の下で首相をつとめていた。「革命」の立役者とされ、2007年12月に2度目の首相の座についたユリア・ティモシェンコもエネルギー部門を担当するウクライナの副首相だった。

キルギスの新指導者であるクルマンベク・バキエフも初代大統領のアスカル・アカエフの下で首相だった。

政治的な改革、民主化の停滞、民主化の失敗、腐敗の蔓延など、独立後に生じた多くの問題がこうした政権幹部や若手エリートを反体制派に転換させてといえよう。

・革命が飛び火しなかったアゼルバイジャン

一方で、国家体制がより抑圧的かつ堅固で、反体制派が育っていない旧ソ連諸国には、このような「革命」は飛び火しなかった。アゼルバイジャンはその筆頭だろう。アゼルバイジャンでは、2005年の議会選挙の折に、「革命」が生ずるのではないかと期待する向きもあったが、与党へのわずかな抗議行動があっただけで、何の変化も起きず、イルハム・アリエフ大統領のもと、堅固な権威主義体制にもとづく「安定」が継続している。

その安定の背景と原因は何か?

ひとつは外的要因。とくにアメリカのダブルスタンダードだ。アメリカは旧ソ連諸国の「民主化と安定化」を実現させ、ロシアの影響力を削ぎつつこの地域に政治的経済的な影響力を強化していきたいという戦略的願望を強くもっている。また、いわゆる「色革命」に対してアメリカが有形、無形の支援をしたこともしられている。ところがアゼルバイジャンについてはアメリカのスタンスは自己矛盾を孕んでいる。

アゼルバイジャンの2005年の議会選挙の際には、隣国グルジアでの民主化の動きなどをうけ、アゼルバイジャンで次のドミノが起きるのではないかとの予測が国際的に広く浸透していた。実際、アメリカは選挙戦の当初には野党を支援していたという形跡もある。ところが、後半になるとアメリカは支援を控えるようになり、与党による野党への弾圧もかさなり、結局は与党の圧勝に終わった。

なぜアメリカが民主化の支援に腰が引けたのか。そこには「安定と民主化のジレンマ」がある。民主化と安定は短期的には相矛盾する。急速に民主化しようとすればその過程での不安定化は避けられない。実際、「民主化ドミノ」を経験したグルジア、ウクライナ、キルギスではいまだに混乱が続いており、将来への明確な展望も持てない状況にある。

アメリカは石油関連PTの最も重要な拠点であるアゼルバイジャンが不安定化することを恐れたのである。かつてアブルファズ・エルチベイ大統領がクーデターで失脚したとき、彼が進めていた石油契約がすべて反古のされ、次のヘイダル・アリエフ大統領が契約を仕切り直すことになった。そのためアメリカはBTCパイプラインなど主要な石油関連PTが軌道に乗るまでは、現政権を温存しようとしたと思われる。アメリカのこうした対応に対して、野党側は「アメリカが自国の国益を優先してアゼルバイジャンの民主化を見捨てた」として、選挙後しばらく反米デモを繰り返し、アメリカ大使はほとぼりが冷めるまで、公邸の外に出られなかったほどだったという。

一方、国内要因としては、そもそもアゼルバイジャン人は安定を志向する人々であり、くわえて民主化や西欧的な価値観には懐疑的とされる。これにはナゴルノ・カラバフのトラウマも関係していると思われる。

民主主義的かつ民族主義的指導者であったエルチベイ大統領の時代、ナゴルノ・カラバフ紛争で大敗した時、国民は満足に食事もとれないつらい日々を経験していた。そのため、国民は「民主的指導者の政治が自分たちを不幸にした」という感情を抱いており、民主化は必ずしも平和につながらないということを学んでしまった。民主化に対してはつねに懐疑的なのである。さらに、近隣諸国の「色革命」後の混乱を見て、「やはり民主化は混乱を招く」との認識を強め、たとえ権威主義体制であろうと、安定こそが最も重要と考えてしまうようだ。

そしてこの“安定”を支えている最大の要因は、ヘイダル・アリエフ前大統領の人気とカリスマ性といえる。彼はナゴルノ・カラバフ紛争後のアゼルバイジャンに安定をもたらし、堅固な権威主義を確立した。

旧ソ連諸国で権力の施中があったのはいまのところアゼルバイジャンのみであるが、現大統領のイルハム・アリエフは父、ヘイダルの人気を基盤として基本的には父の政策を踏襲しつつ、少しずつ、自分の色を加えていくことで、政治の安定を保っている。また父の神格化を進め、主要な道路、空港、国立劇場、石油関連の大工場など国家の主要なインフラには、すべてヘイダル・アリエフの名前が冠されている。BTCパイプラインもアゼルバイジャン国内ではヘイダル・アリエフ・パイプラインと呼ばれているほどだ。国中いたるところに、前大統領の巨大な銅像や記念博物館、記念公園が建設され、没後から5年たった今(2008年現在)でも、国営TVでは前大統領に関する番組が毎日何時間も放送されるといった状況。

アゼルバイジャンは自国内に豊富な石油や天然がスがあるために、対外的に強気で、民主化などの提言を無視できる状況にある。野党には、国民を惹き付けたり、大量動員したりするほどの魅力も力もないようだ。さらに政権側が、他国の“革命”を綿密に“学習”して、野党による効果的な運動を未然に防いでいる。こうしてアゼルバイジャンには他国から「革命」が飛び火することもなく、権威主義の状況がいまだにつづいている。欧米はこのようなアゼルバイジャンの現状を批判はしているが、その声は政権に影響をおよぼすほど大きなものにはなっていない。

Ⅷ. バクーの歴史遺産と観光名所

1. バクーの市街

城壁都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、乙女の塔は、アゼルバイジャンの首都バクーの歴史的建造物の設定されたユネスコの世界文化遺産。

世界遺産が設定されているのは、カスピ海沿岸の都市バクーの旧市街。城壁内は一般にイチェリ・シェヘル(アゼルバイジャン語で「内城」の意)と呼ばれている。

バクーの町は5世紀頃からあったとされるが、その存在が確認されるのは10世紀以降である。バクーは伝統的に現在のアゼルバイジャン共和国東部にあたるシルヴァン地方の主要都市で、もともとペルシャ人のゾロアスター教徒の多い街だったが、アラブ人とともにイスラム教が到来し、さらに現在のアゼルバイジャン人の直接の祖先とであるティルク系の遊牧民が侵入した。

1538年までは、土着のシルヴァン王朝が首都としていたが、南のアーゼルバーイジャーン地方(現在のイラン領アゼルバイジャン)に興ったサファヴィー朝の支配を受け、さらに1585年にはオスマン帝国によって征服された。まもなく17世紀にはサファヴィー朝の支配下に戻るなど、イランとトルコの政権の間で争奪がつづいたが、1806ねんいはカスピ海西岸を南下してきたロシア帝国によって占領され、ロシア人主導で近代都市が建設された。さまざまな民族の支配を受けたことにより、バクーはアゼルバイジャン固有の文化はもとより、アラブ、イラン、ロシアなどの影響と文化が共存する独自の景観をもつようになった。

2. バクーの世界遺産

ユネスコの委員会(ICOMOS)は、バクー内城を世界文化遺産に認定するに際し、以下のコメントをつけた。

「バクー城内はゾロアスター教、サーザーン朝、アラブ、ペルシャ、シルヴァン朝、オスマン帝国、ロシアの文化の影響を受けた歴史的な都市景観と建築の顕著な例である」

世界遺産保護区域内に含まれる史跡
・バクー城壁地区(イチェリ・シェヘル)内。

 ーメフメト・モスク
 ー12世紀のメドレセ(イスラム学院)
 ーハッジ・ガーイヴのハンマーム(浴場)
 ーゾロアスター教寺院(17世紀)
 ーカースム・ベクの隊商宿
 ーカースム・ベクのモスク
 ームルターニー人(インド商人)の隊商宿
 ーブハラ人(中央アジア商人)の隊商宿
 ー17世紀のハンマーム跡

・シルヴァン・シャー宮殿

 ーシンヴァン・シャー廟
 ーセイッド・イェフヤー・バクーヴィー廟
 ーケイグバードのモスク

15世紀にシルヴァンシャー・ハリルラ一世によって建設されたシルヴァン朝歴代の国王の居城跡。王族の霊廟、聖者の霊廟、浴場跡、王のモスクなどがあり、バクーではもっとも良い状態で残っているシルヴァン時代の建築。外壁は19世紀のもの。

・乙女の塔(グズガラスゥ)

旧市街の中、海岸に面した通り沿いに位置。バクーのシンボルで、高さは約30m。この場所に拝火教寺院として最初に塔が建てられたのは5世紀と言われており、その後、塔は次第に要塞の役割を果たすようになった。現在の塔は12世紀に建てられたもの。

このほかに、
ハジンスキー邸:乙女の塔のとなりにある1912年に建築されたゴシック様式のマンション。19世紀前半の石油ブーム時にはバクーしないに多くの豪奢な邸宅が建てられたが、そのひとつ。1944年、シャルル・ド・ゴールがスターリンとの会談のためモスクワに向かう途中、ここに滞在したという逸話がある。

さらに、
 ー民族工芸博物館
 ー独立博物館
 ー劇場博物館
 ー歴史博物館
 ー国立人形劇場 

また、バクーが石油産業都市として栄えたロシア帝政時代の文化遺産が保護区域に含まれている。

・観光スポット

2000年、バクーの内城は「シルヴァン・シャー宮殿」・「乙女の塔」とともに世界遺産に登録された。ところが2000年11月25日のバクー大地震で、危機にさらされている世界遺産のリストに2003年登録。しかし、2009年に改善・復旧が認められ危機遺産リストから脱した。

・旧市街(イチェリ・シェヘル):

都市の中心部にはかつて旧市街を取り囲んでいた城壁が残って おり、2000年12月ユネスコによってアゼルバイジャンで最初の世界文化遺産に登録。現存しているほとんどの城壁や塔は、1806年のロシア征服後に補強されたもの。迷路のような細い小径と古い建物が古代のおもむきを伝える。

・シルヴァン・シャー宮殿:

シルヴァン朝の君主が住んでいた宮殿で、バクーでもっとも有名な名所。

・隊商宿跡:

カースム・ベクの隊商宿やモスク、ムルターニー人(インド商人)やプラハ人(中央アジア商人)の隊商宿。

・乙女の塔:

11世紀頃建てられた塔。悲劇の王妃の伝説からこの名がついた。高さは28m、8階建てで堅牢な建物。人気のあるデートスポット。

・浴場跡:

ハッジ・ガーイブのハンマーム

・金曜モスク(ジュマ・モスク):

元は金曜礼拝につかわれた大モスク。以前は、絨毯や美術品の博物館だった。旧市街にもいくつかの小さなモスクがあるが、他の建物と区別するような特徴もなく佇んでいる。12世紀のメドレーセ(イスラーム学院)、17世紀のゾロアスター教寺院。

・歴史(文学、芸術)博物館:

建物自体はロシア帝国時代の富豪の大邸宅だった。

・殉教者の共同墓地(以前はキーロフ公園と呼称)

1990年1月20日のソ連軍バクー侵攻や1992年以降のアルメニアとの戦争による戦死者を悼んだもの。

・バクー地下鉄:

1967年開業。バクーはソヴィエト連邦内では5番目の地下鉄都市だった。
現在は、X字型に交差する2路線(33.1km、22駅)。

Ⅸ. アゼルバイジャンの人々と何を語るか、村塾の問題意識のために

アゼルバイジャンで訪問する諸機関の専門家や担当官、面会・懇談する事業家などの人々と議論する際、以上に学んだことをしっかり年頭に置き、適切な議論によってやはり現地だからこそ重要な問題やテーマについてより深くより的確な示唆を得ることができたと思えるような議論をしたいと思います。これからのWSでそうした観点からどのような議論をどのように進めることが望ましいか皆で考えましょう。

参考文献
  • 広瀬陽子 『旧ソ連地域と紛争:石油、民族、テロをめぐる地政学』慶應義塾大学出版会、2005年
  • 広瀬陽子 『コーカサス:国際関係の十字路』集英社新書、2008年
  • 松戸清裕 『ソ連史』ちくま新書、2012年
  • 宮樫耕介 『コーカサス:戦争と平和の狭間にある地域』ユーラシア研究所、2012年
  • 前田弘毅 『グルジア現代史』ユーラシア研究所、2009年
  • 吉村貴之 『アルメニア近現代史』ユーラシア研究所、2009年
  • アゼルバイジャン文化・観光省『バクーのイチャリ・シャヘル』、2007年
  • アゼルバイジャン文化・観光省『アゼルバイジャンの歴史的建築物』、2009年
  • Azerbaijan Tourist Association 『Azerbaijan』
  • ラフィーグ・イスマイロフ「独立21周年ー業績、課題と展望」IRS編集委員会『IRS:遺産』2012年夏季号
  • サヒブ・ジャマル「第一共和国の最後の春」『IRS:遺産』2012年冬季号
  • 日本国外務省「アゼルバイジャン共和国の基礎データ」2013年12月20日
  • Wikipedia「各テーマ」最近時点。
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